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日本近代化の流れ(21)

(4)ロシアの満州植民地化(1900.11)日英同盟(1902.1.30)

 

この北清事変次の平和への脅威が発生している。それはロシアによる満州の占領と言うモラルなき軍事行動である。ロシアは不凍港を求めて遼東半島へ進出した。三国干渉で旅順を日本から清国へ返還させたと思ったら、今度はロ助がそれを租借してしまった。ロシアは朝鮮が欲しくて欲しくて仕方がなかったのである。そのため満州を占領して朝鮮を窺(うかが)おうとしたのである。日本にとってのみならず、イギリスにとってもこれは一大事であった。

 

ボーア戦争で多大な戦費や人員を費やしたためイギリスは、中国における自国の利権の維持とロシアをけん制するために、他の列強との連携せざるを得ない状況であった。

 

イギリスは三国干渉を実施した独仏との連携には躊躇した。その代わりに義和団の乱で活躍した日本に接近することになる。日本もロシアと妥協することに失敗し、ロシアとの関係は悪化していた。

 

日英同盟は、日本は三国干渉を口頭で直接受けた林薫(ただす)を特命全権公使として、イギリスは外務大臣ヘンリー・チャールズ・キース・ペティフィッツモーリスを代表として、1902年1月30日調印(そして発効)された。

 

この日英同盟軍事同盟である。『締結国が他の一国と交戦した場合は同盟国は中立を守り他国の参戦を防止すること、2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務付けたものである』、とWikipediaに述べられている。そして、この交渉の中で、日本は単独でロシアと戦争を始めることを伝えている。結果として、1904年2月8日、日本はロシアと開戦することとなる。

 

ロシアは1900年7月に東三省を占領している。そしてその占領の固定化を図るために、1900年11月「第2次露清密約」を結んでいる。

 

ロシアはこの密約で、満州への軍隊駐留権や要塞の設置、ロシア人の保護、地方政府への監督権などを得て、鉄道沿線だけでなく満州全域の軍事・行政を支配下に置いた。

 

鉄道施設権は、1896年6月の「(第1次)露清密約」で獲得している。即ち、東清鉄道(満州里からハルピン、ウラジオストク)を施設する権利などである。そしてこの密約は、日本との戦争ではお互いに協力し合う、と言う内容の軍事同盟でもあった。

 

イギリスはもとよりアメリカも満州に権益得たいと思っていたので、ロシアの満州植民地化には大反対であった。そのため、ドイツとともにアメリカも日本とロシアとの戦争には、大賛成であった。そのためフランス(1892年露仏同盟)を除く各国は日本に対して、ロシアとの戦争を欲していた。アメリカは満州の利権を狙い、イギリスはロシアが清国を抑えるのではないかと心配し、ドイツはロシアが衰退すればフランスとロシアからの圧力が減ると考えていたのである。そしてそれぞれの国ごとに事情を背負って、列強は日本をけしかけてロシアとの戦争へと導いていった。もちろん、日本は日本で、ロシアが満州を押さえ、朝鮮へ侵入してくることを極度に恐れていた。そのためロシアを満州から駆逐する必要があった。

 

 

だからこの日露戦争は、ある意味で当時の全世界を巻き込んだ戦争とも見てとれるのであり、そのために日露戦争第0次世界大戦とも言われ始めている。またちなみにアメリカのこの満州への執着が日本との軋轢を生み、後の大東亜戦争へと繋がっていくのであった。

 

 

特にロシアは当初は旅順と言うであったものを、鉄道を敷き自己の権益をにまで伸ばし、そして今回は満州全体と言うへと拡大して行ったのである。その面が朝鮮へ、そして日本本土へと拡大しようとしているのである。このロシアの満州植民地化は、日本の一大脅威であった。日本はそのためにロシアとの戦争を決意したのである。

 

ロシアは現代においても日本の脅威ではあるが、それよりも脅威なのは、中国である。中国は毎年軍備を拡大させており、尖閣と言う点を沖縄列島という線に拡大させ、そのうちに日本全体と言う面にまでその毒牙を拡大させようとしている。

 

 

結局ロシアは1903年10月までには、満州から撤退するとした1902年4月の「満州還付に関する露清条約」を守らずに、兵を引かなかった。撤退は、半年後の1902年10月が第1回目、第2回目の撤退は半年後の1903年4月、そして最後の撤退が1903年の10月と言う計画であったが、2回目以降は兵を引くどころか反対に増強させた。そのため日本国内では、三国干渉以来のロシアへの不信感に火がついた。そして東京帝国大学の七博士などはロシアとの開戦を主張した。

 

日本は1902年1月30日に、日英同盟を締結し対ロシア戦争の準備は進めてはいたが、極力外交努力でロシアとの衝突は避けようとした。

(続く)