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日本近代化の流れ(22)

(5)無鄰菴会談と満韓交換論、そして日露開戦

 

そして1903年4月21日、対露交渉の方針を打ち合わせる会談が、京都にあった山縣の別荘の無隣庵(正式には、無鄰菴むりんあん)で開かれた。出席者は総理大臣桂太郎外務大臣小村寿太郎枢密院議長山県有朋、政友会総裁伊藤博文である。ロシアは満州に居座り北朝鮮での利権の拡大に乗り出していたので、ロシアの強大な軍事力を鑑(がんが)み「満州における利権は認めるかわりに、朝鮮における日本の権利を認めさせる。そのためには戦争をも辞さない覚悟で臨む。」と言う方針を、桂と小村はこの会議で決めたかった。

 

Wikipediaによると、この無隣庵会議では、桂首相は「満州問題に対しては、我に於いて露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟なかる可からず」と言う対露交渉方針を、山縣元老と伊藤総裁の同意を得たのであった。要は『満州についてはある程度は譲歩しても、朝鮮については一切譲歩しない』ということで、日本政府として意思統一したのであり、そしてそのためには日露開戦の覚悟を再確認したのである。しかし、対露交渉は慎重に進める必要があった。なんと言ってもロシアは世界最大の軍事大国である。

 

 

1903年8月の日露交渉において、「ロシアは満州を支配下に置く代わりに、日本は朝鮮半島を支配下に置く」と言う、いわゆる『満韓交換論』を、日本はロシアに提案した。しかしこの妥協案にロシアは興味を示さなかった。常識的に考えれば、強大なロシアは日本との戦争に何ら恐れる理由は何もなかった。セルゲイ・ウィッテ首相だけが、戦争に負けることはないがロシアが疲弊することを恐れて、戦争回避論を展開したが、ニコライ2世皇帝によって退けられている。ウィッテは、あの三国干渉を主導した蔵相ウィッテその人である。このときは首相にまで上り詰めていたのである。

 

 

ロシアの回答は、日本を馬鹿にしきったものであった。ロシアは、朝鮮における日本の地位を否定したものであった。即ち、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯として、軍事目的での利用を禁止すると言うものであった。現在38度線で朝鮮半島は南北に分断されているが、北緯39度とは、今の平壌ピョンヤン付近を通っている。

 

これは朝鮮半島の北半分はロシアが独占的に管理する、と言う事に等しいものであり、そして南半分で力比べをしようではないか、と言ったものであった。全く日本など眼中にないと言った風情であった。

 

もしこんなことに同意すれば、朝鮮半島は確実にロシアの支配下に置かれることになろう。満州はすでにロシアの手に落ちている、朝鮮までロシアの思う通りとなれば、日本の独立は確実にロシアに脅かされることになる。

 

 

しかも、旅順大連租借条約1898.3.27)でハルビンから大連・旅順への鉄道敷設権を獲得し(東清鉄道支線)、1903年1月に完成させている。ロシア領のチタから清国領の満州里、ハルビンウラジオストク(正しくは浦塩近くのウスリー鉄道)への連結(東清鉄道)も1903年7月に完成している。そしてシベリア鉄道全線の開通も間近に迫っていた。そうなるとヨーロッパから満州、朝鮮への軍隊の派遣はすこぶる容易となる。そのためシベリア鉄道の全線開通前に、満州のロシア軍を叩いておく必要があった。日本の国論も対露開戦を後押しした。結局日本は、1904年2月6日小村寿太郎が駐日ロシア公使ローゼン(ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン)を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。シベリア鉄道バイカル湖シベリア鉄道←→東清鉄道)の全線開通は、日露戦争開戦後の1904年9月であった。参考までに、ウスリー鉄道のハバロフスクからバイカル湖方面のロシア領内のシベリア鉄道の完成は、1916年となる。ロシアは手っ取り早く満州を横切って満州里からハルビンを経由してウラジオストクへの本線とハルビンから奉天、遼陽を通り大連、旅順への支線の完成を急いだのである。丁度丁の字の形で東清鉄道を完成させていたのであり、当初はこれをシベリア鉄道と呼んでいたのである。丁の字左がチタ、満州里で右がウラジオストク(ウスリー鉄道)、真ん中にハルビン、下が大連、旅順と言った形だ。

東清鉄道路線T s5nk

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B8%85%E9%89%84%E9%81%93

上記の「東清鉄道周辺の路線図」は↑ここから引用している。即ち、

 

        (シベリア鉄道,1916年開通)

    ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←ハバロフスク

   ↓                              ↑

   ↓                              ↑(ウスリー鉄道,1897年)

   ↓          (東清鉄道,西側1901、全線1903/7)    ↑

←←チタ→満州里→→→ハルビン→→→綏芬河(スイフンガ)→ウラジオストク

            ↓

           長春

            ↓  (東清鉄道支線、南満州鉄道,1903/1

           奉天19040112

            ↓

           大連

           旅順

 

・・・・・・と言ったところが満州をめぐる鉄道の状態であった。ちなみに東清鉄道露仏同盟のフランスの資本で主に造られたものである。

(続く)