日本近代化の流れ(28)

(4)日韓併合

 

 

日露戦争は、満州と朝鮮をめぐる日本とロシアの戦争であったが、勝利した日本は満州と朝鮮に関する日本の要求は、満額回答を得た。しかし賠償金などは、ルーズベルトの策略もあり、得ることはできなかった。

 

講和全権大使の小村寿太郎は、講和が成立したその時、高熱を患っていた。それでもおいオイスター・べイのルーズベルト大統領を訪問して、「韓国の保護権と満州の権益の確保」をルーズベルトに認めさせるためであった。具体的な内容は、満州は清国領なので清国にはどうしてもロシア権益の日本への譲渡を(場合によっては武力を行使してでも)認めさせると言う事と、ロシアが朝鮮に対してちょっかいを出してきたときは武力を行使することを、了解してもらうためであった。いわば講和の「仕上げ」であった。

 

ウィッテは、ロシアは力を蓄えてから日本に復仇東洋に進出する、それまでの辛抱だ、と考えていたのである。もし明石元二郎大佐のロシア革命工作が成功していなかったら、ひょっとしたら早い段階に、日本はロシアに攻め込まれていたかもしれなかったのだ。その証拠に、スターリンは、終戦と同時に、日ソ不可侵条約を破って、満州に攻め込んできたではないか。

 

 

1905/7/29には、フィリピン訪問の途中来日したウィリアム・タフト陸軍長官桂太郎首相兼外務大臣との間で、「桂・タフト協定」が結ばれた。これはT・ルーズベルトが日本が南方に進出しフィリピンを脅かすかもしれないとの猜疑心を持っていたので、日本にアメリカのフィリピン領有を認めさせその代わりにアメリカは日本の韓国保護国化を認める、と言うものであった(「クリック20世紀、桂・タフト協定」、http://www.c20.jp/1905/07taftk.html を参照)。

 

なんと言ってもルーズベルトは、カラーコード戦争計画1904年に下問し1908年には白い艦隊を世界に派遣し10月には日本にも寄航させ、日本を恫喝している程である('11/8/9.NO.127参照)。だからタフトからの電文を見たルーズベルトは、7/31に「桂・タフト会談は全ての点において正しい」との返事をタフトに送り、タフトはそれを桂に、桂はそれをポーツマスの小村に送っている。この時点で米国も日本が韓国を保護国化すること認めたのである。William Howard Taftは、セオドア・ルーズベルトの後を継いだ第27代大統領でもある。アメリカも日本が韓国を保護国とすることを、積極的に認めたのである。

 

駐韓米国公使であったホレイス・ニュートン・アレンHorace Newton Allenは、敬虔な宣教師であり有能な医者でもあったが、1884年駐朝米国領事館付き医師として朝鮮に派遣され医術で朝鮮国王の高宗の信任を受け、1897年に駐韓米国公使になっている。親韓派でどちらかと言うとアンチ日本でもあったアレンは韓国擁護をワシントンに説いたために、ルーズベルト1905年に更迭されたのであるが、そのアレンでも「韓国は自己を治め得ないから日本が統治するのがよいだろう」とも言っている。

 

そして1905/8/12には第2次日英同盟が調印されている。第1次日英同盟(1902/1/30)では、他の一カ国と戦争した場合にはお互いに中立を守る、と言うものであったが、第2次日英同盟では、イギリスのインドに対する特権と日本の朝鮮に対する支配権を認め合うとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、他の一カ国以上と戦争した場合にはお互いに助けて参戦する義務があると言う攻守同盟となったのである。これでイギリスも日本の朝鮮支配を認めたのであり、日本を極東の強国として認めて日英同盟を攻守同盟としたのであった。

 

以上見てきた様に、全て韓国の頭ごなしではあったが、日露戦争の結果世界の列強が日本の韓国支配を認めたのであって、そして日本は韓国に対する優先権を列強が認めたことで、ロシアの脅威から韓国を守り、日本の独立を強固にすることが出来たのである。

 

 

駐韓米国公使のホレイス・ニュートン・アレンに言われるまでもなく、日露戦争がなければ朝鮮はロシアの領土となってしまっていたであろう。こんな事態は他の列強も許すはずがないことである。満州・朝鮮をロシアが手にすることは、極東、東アジアはロシアの勢力下となることを意味し、英・米にとっては東アジアの利権を失うことになり、到底許されざることであった。日本にとっても同じである。

 

だから日露戦争に勝利したとはいえ日本は油断禁物である。ロシアを除く世界は朝鮮の自立を欲し、その役目を日本に託したのであり、日本は言われるまでもなく朝鮮の近代化・自立化を進めざるを得なかったのである。

(続く)