(11)
依然としてロシアは満州の北半分を監理しており、何時ロシアから復讐戦を吹っかけられるか判らなかったわけで、その押さえのためにも日露協約が結ばれ、日本はいち早い韓国の近代化を急いで進める必要があった。韓国国内にも李氏朝鮮のままでは近代化はできないと悟り、韓国を日本に併合してもらい、それにより韓国の近代化を図らざるを得ないという考えが台頭していた。
(12)
1909/12/4に韓国の政治結社の「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」を、皇帝の高宗と首相の李完用に上奏している程である。しかしこれは対等合併提案であり、大日本帝国としては到底受け入れられないものではあった。
(13)
1910/6/3、日本では「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、1910/7/8には第三代統監の寺内正毅の設置した併合準備委員会の処理方針も閣議決定される。そして韓国首相の李完用に対して、1910/8/6、併合を提案する。韓国政府としても学相(文部大臣)一人の反対はあったものの、大勢としては日本による韓国の併合には大賛成であった。8/22の韓国の御前会議で李完用首相が条約締結の全権委員に任命され、1910/8/22に漢城にて韓国併合条約は寺内正毅統監と李完用首相により調印された。そして8/29に裁可公布され大日本帝国は大韓帝国を併合した。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は大東亜戦争が終わるまで日本の統治下におかれた、とWikipediaは続けている。これにより大韓帝国と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。
(14)
その結果、韓国の財政の2/3は日本からの持ち出しで賄われていたのである。そしてこの8年間(1907~1914年)での日本政府の持ち出しは、1億9千万円以上となっている。当時の1円は現在の3万円と換算されると言われているが、現在の金額に換算すると、この8年間で6兆円近い額が朝鮮に投入されたのである。その結果ようやく朝鮮の近代化が進むことになったのである。
(15)
このような日本の努力の結果、朝鮮の人口は爆発的に増加する。
「ねずきちの ひとりごと」によれば、朝鮮半島の人口増加は次にようになっている。
(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-220.html)
1753年 730万人(1.00)
1850年 750万人(1.03)
1906年 980万人(1.34) (1.00)
1910年 1,312万人(1.80) (1.34) (1.00)
1920年 1,691万人(2.32) (1.73)
1930年 1,968万人(2.70) (2.01)
1940年 2,295万人(3.14) (2.34) (1.75)
1944年 2,512万人(3.44) (2.56) (1.914)
ちなみに李氏朝鮮時代の人口は、減少しているのである。
韓国の教師用国定歴史(国史)教科書によると、李朝時代の総人口は
1777年 1,804万人(1.00)
1877年 1,689万人(0.9362) -6.38% 李氏朝鮮時代
これに対して日韓併合時代は
1910年 1,313万人(1.00)
1942年 2,553万人(1.944)+94.4% 日韓併合時代
李氏朝鮮時代の人口は「ねずきち」と「教師用国史教科書」では、「教科書」の方が倍以上のサバを読んでいるが、6%以上も人口は減っている。これに対して日韓併合時代では、減るどころか倍近く人口は増えていることがわかる。日韓併合以降の両者の人口の数字は似通っているので、韓国併合以降で人口が爆発的に増加していることは事実なのであり、如何に日本の統治が韓国社会の発展に寄与したかを物語るものである。
(続く)