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日本近代化の流れ(33)

そこら辺の状況を、小生のブログから少し引用しよう。

 

先ず「日本は侵略国家ではありません。」(2008.12.28,NO.8)より。

 

 

第1次世界大戦の講和条件を討議した「パリ講和会議」は、1919年1月18日に開催された。日本は日英同盟の結果イギリスよりの要請により参戦し、陸軍はドイツの山東租借地チンタオ要塞を攻略し、海軍はドイツが支配していた南洋諸島を攻略した。またインド洋と地中海では連合国の商船の護衛と救助活動に従事した。

 

これらの実績により日本も連合国五大国(日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア)の一国としてパリ講和会議に参加した。日本はこの結果、山東半島の旧ドイツ権益や南洋諸島信託統治領として獲得した。日本は同大戦中のいわゆる対華21ヶ条要求を通じてドイツ権益の日本の継承を認めさせた。アメリカはやがては東亜で日本とぶつかることを想定し、日本が権益を継承することに反対で中華民国袁世凱をたきつけて、この会議で文句を言わせている。アメリカは中国での権益を得られなかったため、対日感情が悪化し日系移民排斥に一層の拍車が掛かる事となった。

 

そのため日本は、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の提唱による国際連盟の規約に、人種差別撤廃条項を加えるように提案している。国際会議で人種差別撤廃を明確に主張した国は、日本が最初である。これは出席者16名中11名の賛成多数を得たが、議長を務めるアメリカが突如として全会一致を主張し、多数決を無視して本提案を葬ってしまった。この拒絶を受け、日本は特にアメリカに対する不信感を強めることとなり、後の大東亜戦争への伏線となって行く。国際連盟では日本は五大国の一員として常任理事国となっている。

 

日本の主張に対してことごとく反対していたアメリカの状況は、丁度今の情勢と似ているように、小生には思われる。北朝鮮テロ支援国家の指定を解除をしたり、日本が国連常任理事国に就くことに反対したり、と何かにつけ邪魔をするようになってきている。

 

 

更には、日本海軍は英国の要請により、地中海方面にも特務艦隊(駆逐艦隊)を派遣し、連合国側の輸送船団の護衛に従事している。これも「第2次上海事変」(2012.5.29,NO.2)より引用しよう。

 

 

10年ほど前の第1次世界大戦1914/7~1918/11)では日本は日英同盟に基いて、ドイツの山東租借地であったチンタオ要塞をイギリスと共に攻略し、更にはドイツ支配南洋諸島を攻略している。なお日本軍の評価を高めたものは、この大戦中連合国の要請を受けて、地中海やインド洋に合計18隻の第二特務艦隊を派遣し、連合国の輸送船団の護衛をしたことである。この護衛作戦では、Uボートの攻撃により駆逐艦「榊」が大破し、59名が戦死している。合計78名の日本軍将兵の御霊を守るために、マルタ島イギリス海軍墓地に日本軍将兵の戦没者のお墓が建立されている、とWikipediaには書かれている。

 

ちなみに第一特務艦隊はインド洋に派遣され、シンガポールケープタウンを拠点としていた。ドイツとしてはインド洋に拠点を持たなかったので、第一特務艦隊はこれと言った実戦体験はなかった。

 

第2特務艦隊は「地中海の守護神」と称えられ、世界中から称賛されていると言う。ちょっと長いが、次のブログを読んで頂きたい。

 

 

 

世界が称賛したこんなに勇敢で誇り高い日本人が居たという事実をもっと学んで欲しい。マルタ島の英霊たち。

 

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/30806548.html

 

   我らの先人たちが眠るマルタ島。なぜここに? マルタに眠る日本兵img_0 T s5nk

 

地中海にあるマルタ島。そのカルカーラの丘の英海軍墓地の一隅に、

大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」が建っています。

なぜこんな遠くの地に、しかも墓碑までもが建てられたのでしょうか。

 

3人の共産主義者セルビア青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺したサラエボ事件に端を発した第一次欧州戦争。オーストリア同盟国はドイツなど。 これに対しセルビア側にはロシア、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、日本などの連合国が対峙しました。

この第一次欧州戦争でドイツはヨーロッパ戦線が膠着していたため、ドイツは地中海で潜水艦Uボートによる無差別攻撃を決行しました。そのため兵員などを輸送する連合国の船舶被害は激増しました。これに音をあげたイギリスは同盟国でもある日本に派遣を要請します。

 

我が国には大戦当初、支那の青島やマリアナ諸島方面に展開するドイツ海軍に対する作戦もあり、艦艇を地中海に派遣する余裕はありませんでしたが、連合国の輸送船を護衛するために、巡洋艦「明石」と駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊を地中海に派遣することにしました。

 

日本の艦隊が現地到着した頃には連合国の艦船被害は甚大であったため、我が帝国海軍は長期行動であるにもかかわらず休養もないまま直ちに護衛任務を要請されました。

船舶の護衛とともに被害を受けた艦船の救助活動も重要な任務でした。

 

戦闘中の救助作業は自らを危険にさらすことでもあり容易なことではありませんでした。

また救助活動で多数の救助者が艦内に収容され食料や水はたちまち底をついたにもかかわらず、日本兵たちは自分たちの食糧はおろか、衣類や寝場所まで彼らに与え、自分たちは空腹と不眠のまま任務を遂行しました。

 

大正65月、我が帝国海軍の「榊」、「松」の駆逐艦2隻は、魚雷攻撃を受け沈没していく兵員輸送船「トランシルバニア号」の救援に駆けつけて、敵の潜水艦の目前で、しかも敵と戦闘しながら、なんと乗員約1,800名を救助しました。これは奇跡ともいわれるくらい常識破りの行為であり、帰港したイタリア・サボナでは帝国海軍の日本兵たちを英雄として大歓迎しました。

また、大正7年、駆逐艦「桃」「樫」は、魚雷を受け自力で航行出来なくなった英船「パングラス号」を不眠不休33晩、戦闘しながら、しかも潜水艦に襲撃される危険も恐れずに同船を曳航してマルタに無事届けました。

この快挙にマルタの町は感極まって日の丸で迎えてくれたのです。

(続く)