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日本近代化の流れ(36)

1925.8月に国民党軍は国民革命軍に編成替えされ、そしてコミンテルンの援助を受ける中国共産党の勢力拡大に対しては、蒋介石は不信感を募らせている。このため1926.1.1蒋介石北伐(中国統一)を主張したが、共産勢力に拠り却下されている。

 

1926.3.20、「中山艦事件」(三二○事件とも)が発生する。中国共産党ソ連軍事顧問らによる「蒋介石ソ連への拉致」を察した蒋介石は、広州でソ連軍事顧問団関係者らを次々と逮捕し、共産党機関の武器を没収し広州市戒厳令を発してしまう。この事件後蒋介石は国民党の主導権を掌握し、共産党員を排除して行く。

 

1926.7.1蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、共産党員やソ連軍事顧問団に拒否されていた「北伐宣言」を行い、北伐を開始する。

 

この蒋介石の北伐により、大陸進出に出遅れていたアメリカから支援を受けていた張作霖は、北京を追われ1927.6.3には北京政府は消滅 する。この張作霖奉天を離れている隙に満州にもコミンテルンの意を受けた共産勢力が一層はびこることとなる。このため満州は大いに荒れることとなり入植していた日本人は激しい迫害を受けることとなる

 

中国共産党も黙っていた訳ではない。1927.3.22に労働者らの武装組織は周恩来の指導の下で上海の警察や守備隊に攻撃を行い、自治組織の成立を進めさせた。このため3.26には上海の商店主や企業家は共産党排除を蒋介石に要求した。

 

そして1927.3.24には南京事件1927年)が発生している。南京に入場した北伐軍が突如として居留地や領事館を襲ったのだ。日本人や欧米人10数人が虐殺され、日本領事夫人をはじめ30数名の日本婦女子が凌辱されている。これは北伐軍に潜む共産分子により先導されたものであったが、諸外国軍は反撃したが、原喜重郎外相は不干渉政策により反撃させなかった。このことが後の済南、通州などの日本人への虐殺事件の引き金となってゆく。

 

1927.4.11には「上海クーデター」で、蒋介石が上海の共産党武装組織に壊滅的な打撃を与え、1927.7.15には親ソ的であった汪兆銘コミンテルンの悪だくみを知り、第一次国共合作は崩壊している。

 

1928.5.3済南事件発生。山東省の済南の日本居留地が国民革命軍に襲われ、日本人が陵辱、虐殺、暴行、略奪された。老荘男女16人が惨殺されている。

 

しかし満州では「商租禁止令」など日本人が借りている土地・家屋の強制的回収策が実施され、特に満州での日本人居住者への迫害が激化していった。更には日本の権益である南満州鉄道に並行して鉄道を敷設し始めたりした。これは条約で禁止されていた事であり、更には日本からの物品に対して二重に課税するなどした。そのため満鉄を始め民間企業は疲弊し満州は混乱した。そのため日本政府は遼寧省政府張作霖政府)や南京政府蒋介石政府)に対して再三再四交渉を持ちかけたが音沙汰無しであった。そのため南京、済南事件の再発を防ぎ特に日本人への迫害を防ぐためには、アメリカをバックとした張作霖奉天軍の排除が必要となり、1928.6.4関東軍は、満州へ引上げる途上の張作霖の特別列車を爆破して殺害を成功させた。(張作霖爆殺事件)。張作霖爆殺事件や満州事変は、日本側の一方的な軍事行動と思われがちであるが、実態は中国側から執拗な妨害を受けた日本人日本企業守るため自衛手段の発揮であった。

 

張作霖爆殺後、後を継いだ息子の張学良蒋介石の国民政府に降伏し、満州も含めて蒋介石が中国を統一する。これを易幟(えきし)と言い張作霖の北洋政府の五色旗から蒋介石の晴天白日満地紅旗(旗)に変えて降伏することを言う。そして満鉄包囲線を敷設し更にはそれと結ぶ港湾施設まで建設して満鉄枯渇政策を実行した。更には間島(豆満江沿いの中国領で朝鮮人が多数入植)での朝鮮人(当時は日本人であった44名殺害)弾圧が激化し政治問題となる(1930年・S5年の間島問題)。

 

1929.5.27張学良がハルビンソ連領事館を強制捜査し、東清鉄道への共産党工作員の配属が明らかとなり、ソ連人従業員を拘束する。するとソ連満州に侵攻して、東清鉄道やその地域一帯がソ連の手に落ちる。同時に中国各地で共産党による暴動が勃発している。

 

1931.6.27には中村大尉殺害事件が発生している。蒙古地方旅行許可証を携えて大興安嶺を密偵していた陸軍参謀中村大尉一行4人が張学良軍に拘束・殺害される。日本関東軍の要求に対して、中国側は虚偽の説明に終始したため、日中間の緊張が極限までに高まっていった。

 

おびただしい排日事件の発生により積もり積もっていた中国に対する不満は、これが直接的な原因となって、満州事変への引き金となったものである。

 

しかも長春の北万宝山の荒れ地に契約により入植していた朝鮮人(当時は日本人であった)が、中国官憲と武装農民の攻撃を受け、百名単位の死亡者が発生した。万宝山事件である。

(続く)