日本近代化の流れ(38)

ここら辺の動きを年表にまとめてみると次のようになる。(小生のブログ「支那事変の真相(15)」(2013.2.25)より引用する。)

 

 

1931.9.18 関東軍柳条湖事件発生、満州平定作戦開始

1931.9.22 関東軍満州領有計画を独立国家案へ変更

1931.9.24 反張学良の有力者達が奉天地方自治維持会を組織

1931.9.26 吉林省臨時政府樹立

1931.9.27 ハルビン東省特別区治安維持委員会発足

1932.1.27 上海市郊外に中国共産党第十九路軍が進出

1932.1.28 第十九路軍が攻撃開始、激戦続く(第一次上海事変

1932.2.-- 奉天吉林黒龍江省要人が関東軍を訪問、満州新政府協議開始

1932.2.5 関東軍ハルビンを占領、ほぼ満州を平定

1932.2.16 奉天に張景恵ら四巨頭が集い、東北行政委員会を組織

1932.2.18 張景恵ら、満州の中国国民党政府から分離独立を宣言

「党国政府と関係を脱離し、東北省区は完全に独立せり」

1932.3.1 四巨頭と熱河省内モンゴル首脳らの東北行政委員会が満州国の建国を宣言

清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀満州国執政、新京(長春)を首都

1932.3.1 日本軍背後に上陸、第十九路軍撤退開始

1932.3.3 戦闘中止、第一次上海事変終了1.28~3.3

1932.3.-- リットン調査団、派遣される

1932.5.15 五一五事件発生、犬養敦首相暗殺

1932.6.-- リットン調査団、視察完了

1932.6.14 衆院本会議にて満州国承認決議案、満場一致で可決

1932.6.15 日満議定書調印、「満州国承認既得権益の維持、関東軍駐留承認」

1932.7.17 関東軍嘱託の石本権四郎が、熱河省内にて張学良軍に拉致され殺害される

1932.10.2 リットン調査団、報告書公表

1933.1.1 山海関の日本軍守備隊、張学良軍に攻撃されるも撃退(~1.3、略奪し逃走)

1933.2.4 熱河作戦認可される

1933.2.24 国際連盟満州国不承認決議採択

1933.2.9 張学良軍が熱河省に攻め入る、

1933.3.4 日満連合軍熱河省を平定するも、執拗攻撃収まらず

熱河省満州の一部で山海関に隣接中国軍は関内のらん東から熱河攻撃

1933.3.27 らん東作戦発令、らん河近辺から熱河への中国軍の攻撃を抑える

1933.3.27 日本が国際連盟脱退を表明(正式脱退は1935.3.27

1933.5.3 関内作戦発令、日本軍が撤退すると中国軍がらん東に進出するを防ぐ

1933.5.31 塘沽停戦協定締結、満州事変の軍事衝突の停止

中国軍はある1線(ほぼ北京・塘沽線の北方地点)より出ない・日本軍はこれを確認

         する・日本軍は確認後長城線まで撤退する

1934.3.1 溥儀が皇帝に即位、満州国・帝政となる

 

 

以上の年表を見ると、中国軍満州国建国後も、執拗に日本軍に対して挑発、攻撃を繰り返していたことがよくわかる。日本居留民への攻撃、虐殺も心配された。南京事件や済南事件を思い起こしてほしい(2016.12.28NO.36を参照のこと)。

(続く)