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日本近代化の流れ(41)

(9) 七月二十九日早暁、通州保安隊は先ず殷汝耕(インジョコウ)を拉致して、通州の日本兵を攻撃してこれを全滅させる。

  それから日本人の大虐殺を始めたのである。

 

  その無類の残虐さは、米国人ジャーリストが「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代を見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」(ウィリアムズ『中国の戦争宣伝の内幕』2009年、芙蓉書房出版)と評したほどたった、とその「正論」七月号には記載されている。

 

(10) 通州に日本軍が駐屯していたのは、義和団の乱による北京議定書で、駐屯が認められていたものであり、左翼勢力からよく言われる様に侵略して駐屯していたものではない。ちゃんとした条約によって、定められた形で日本軍は駐屯していたのである。

 

その日本人と日本軍が、中国軍により虐殺・侵略されたのである。

 

(11) もう一つ。通州の保安隊は、通州の日本側の兵力や武器の内容を綿密に精査し、慎重に状況偵察を行い、十二分の兵力でもって一気に襲い掛かったものであった。

  その証拠に、天津方向からの日本軍の救援を防ぐために、通州-天津間の道路を五、六十箇所も破壊し通行できないようにしていた。北京方面は支那軍が駐屯しているので、問題はない。

 

(12) そして南京政府729日に反日決起を促すの密命を、北支一帯に出していたのである。

   そのため通州以外にでも、天津、豊台、廊坊、順義などでも反日決起が起こっている。

 

(13) 支那人特有の残虐性

   「今回この通州事件の残虐行為を見ると、やはり支那人の持つ残虐性と言うものを極めて明白に知らしめられるのです。それは殺した相手に対して一片の同情もなく憐みの心もなく、殺すということに、屍体をいたぶるということに、これ以上ない興味を持っているのです。日本人はこうした死んだ人に対して残虐行為を行うということは習慣上ありえないのです。よく南京事件のことどもが問題になり、日本人兵が支那人三十万人を殺戮したというように言われておりますが、このことは全くのデッチ上げであり、妄説であります。これについては東大教授の藤岡氏が極めて明快に論じていられるのであります。更にこの南京三十万虐殺が全くの嘘であるということには二つの面から伺われるのです。

 

これは浄土真宗本願寺派因通寺住職であった調寛雅しらべかんがの、東京の教育社から発行されたA5サイズの著書『天皇さまが泣いてござった』の一文である。

 

(14) 因通寺は、佐賀県三養基郡基山町宮浦815に位置する。

   (https://hakataboy.com/temple.php?dirpath=temple/Saga/MiyakiGun/IntsuuJI/


   戦後このお寺に戦争被災児救護教養所として、「因通寺洗心療」というものがあり戦争孤児40余名が収容されていた。このお寺はご皇室と縁があり、昭和天皇の全国巡幸の際に、佐賀県では第一番目の行幸地と、ご指定なされている。

 

「佐賀行幸を終え宮中にお帰りになられた昭和天皇は、このときの訪問のことをこう詠まれた。 「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」。この御製(ぎょせい)因通寺の梵鐘に刻まれている。」(上記URLより。)

 

昭和24年5月22日、引き上げ孤児四十名を収容した洗心寮で、昭和天皇は、一人の女の子が二つの位牌を胸に抱きしめているのに目をとめ、お尋ねになりました。案の条、二つの位牌は両親のもので、その子は、「父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引き上げの途中病のため亡くなりました。・・・・・私は寂しいことはありません。私は仏の子供です」と立派に答えました。

 天皇陛下はその子の頭に何回もなでておられましたが、そのとき、天皇陛下のお目からはハラハラと数滴の涙がお眼鏡を通して畳のうえに落ちていきました。書名はこのエピソードから取られているのです。

 

これは先に挙げた株式会社自由社自由社ブックレット5、「通州事件 目撃者の証言」 (藤岡信勝編著)の12頁に書かれているものである。

 

さてここで「天皇さまが泣いてござった」の内容を伝えるブログを紹介しよう。

2017年平成29年の正月二日、小生も感涙の涙しながらこれを読んだ。ぜひ皆様にもご一読いただきたい。

(続く)