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日本近代化の流れ(44)

(16) 何故通州事件の目撃証言が載っているのか。

   「因通寺の住職であった調寛雅氏は、大分県にある西本願寺の別府別院で講和を担当する機会がありました。そこに熱心に通ってこられたのが、通州事件の目撃者である佐々木テンさんと言う女性でした。「あるとき思いあまったような表情で次のような身の毛もよだつ通州事件の真実を語ってくれたのです」と著者は書き、そこから証言者の一人称の、長い告白文が続くという構成になっています。」とそれには書かれています。

 

(17) 佐々木テンさんは、1932(S7)2月に請われて沈さんと言う支那人と結婚。
   1934(S9)年の初めころに通州に移住し、1937(S12)729にその沈さんと共に、通州事件の現場をまじかで目撃したものでした。

 

佐々木テンさんはその後支那人への嫌悪感から沈さんとは離婚して、S15年に故郷に戻り、晩年には別府に居を移し西本願寺の別府別院によく参詣するようになったものです。しかし通州で目撃した凄惨な日本人皆殺しの地獄絵は、片時も忘れることが出来なかってものと思われます。

それも教導総隊の学生の青竜刀で切り刻まれた老婆の今際の一言が忘れなかったものと思われる。それは「くやしい、かたきをとって、なんまんだぶ」と言って息絶えた老婆の声であった。

 

そして佐々木テンさんは西本願寺の別府別院で、調寛雅氏通州事件の一部始終を語ったのである。

 

(18) 佐々木テンさんの証言は、こうしたいくつかの場面から成り立っています。それらの場面を列挙してみます。

 

十五~十六歳くらいの娘さんとこれを助けようとした父親を凌辱、惨殺

十数名の日本人男性を数珠つなぎにして虐殺

二人の女性を引き出し、凌辱して殺害

路上で念仏を唱えて事切れた老婆

木刀で抵抗した妊婦の夫の頭皮を剥ぎ、目玉を抉(えぐ)り取り、腸を切り刻む

七、八ヶ月の妊婦の腹を割き、胎児を掴み出して踏みつける

五十人以上の日本人を集団で銃殺、日本人は「大日本帝国万歳」を叫ぶ

四、五十人の日本人を近水楼の池で虐殺、池を真っ赤に染める

 

これらの出来事を、テンさんは中国人の夫の肩越しに日本人と気取られないかという恐怖にもおびえつつ、震えながら目撃していたのです。

 

自由社ブックレット5通州事件 目撃者の証言」 藤岡信勝編著の21~22頁より)

 

 

(19) その佐々木テンさんの目撃証言が、

 

通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)・日本人皆殺しの地獄絵】http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1    としてあるので、次にそれを示します。

 

 

通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)・日本人皆殺しの地獄絵】
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1
 

 

[この以下の佐々木テンさんの体験談に対して、自由社ブックレット5通州事件 目撃者の証言」 藤岡信勝編著 と照らし合わせて、必要な追記や一部修正・説明の追記を行っている。

追記部分は青色。一部文字を赤色にしている。通州城内見取り図は説明用に挿入した。なお写真は元のままである。表題の丸数字は先の藤岡氏の列挙している場面の番号である。]

 

昭和12(1937)年7月29日、北京の西50キロにある通州市において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争のきっかけのひとつになったともいわれる「通州事件」です。

通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生によって、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。
支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみもなく、屍体までもいたぶった。
ようやくかけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状でした。

通州事件を、私達日本人は決して忘れてはいけません。
なぜなら、この事件は、一から十まで全て事実だからです。

以下は、その通州事件の体験者であるSさんの体験談です。(佐々木テンさんです。)

~~~~~~~~~
【Sさんの体験談】

支那人と結婚し支那に渡る

私は大分の山の奥に産まれたんです。

すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさん(沈さん)という支那人と出会ったのです。

このT(沈さん)さんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさん(沈さん)が私に「Sさん(テンさん)、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさん(沈さん)が友人のYさん(楊さん)という人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当(本気)にしなかったんです。

でも、Yさん(楊さん)はすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさん(沈さん)は今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
それでTさん(沈さん)はあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさん(楊さん)は強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさん(沈さん)が払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさん(沈さん)はそれを絶対に許しません。

自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさん(沈さん)に従ってその年の三月に支那に渡りました。

(続く)