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日本近代化の流れ(45)

通州で日本兵と語る楽しみ

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさん(沈さん)が仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさん(沈さん)が通州に行くというのです。

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさん(沈さん)に従って通州に行くことにしたのです。

通州事件の惨劇02



それは昭和九年の初め頃だったのです。

Tさん(沈さん)が言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさん(沈さん)は最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

私はTさん(沈さん)と結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさん(沈さん)があまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。

それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。

そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさん(沈さん)がやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。

(沈さん)に頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさん(沈さん)も北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさん(沈さん)と一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

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(参考用に挿入した。)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html
 より。

この通州と言う街にはその当時冀東防共自治政府がありました。これは殷さんと言う人が作った政府で軍隊も一万人以上居ったそうです。そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も日本人であるということに誇りを持っていたのです。(文章が抜けていたので追記。)

(続く)