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日本近代化の流れ(82)

さてこれから紹介するこの話は、産経新聞社の雑誌「正論」の20168月号、9月号、11月号と、続きで連載された『二日市保養所70年の記録、封印された引揚女性の慟哭』を参照している。これは元毎日新聞ソウル特派員の「下川正晴」氏の寄稿したものである。

 

 

国破れて山河あっても、満州や朝鮮からの引揚者たちの悲惨な状況は筆舌に尽くしがたく、その凄惨な歴史は日本人として忘れてはならないものである。

 

当時の九州での主な引き上げ港は博多と佐世保であった。その博多港には一日平均約四千人の引揚者が上陸していたと言う。

 

その引揚者たちの救護活動を行っていたのが、京城帝国大学の教職員や学生たちが作った移動医務局であった。

 

その中心人物が当時京城帝国大学の法文学部の助教授であった「泉靖一」であった。彼は後に東大教授、東洋文化研究所長を務めた。東大南米アンデス調査団長を務め、無土器時代の神殿群として有名なコトシュ遺跡を発見して有名。ペルー政府からは最高勲章「オルデン・ドスール」を受賞している。文化人類学会の第一人者で、その功績は非常に大きい。この時は30才の新進気鋭の学者であった。

 

そして、博多駅近くの名刹「聖福寺」を寺院毎借り受けて、引揚者用の総合病院を作ったのが、緒方龍氏であった。緒方龍氏は新聞記者や政治家であった緒方竹虎実弟であり、内科医であった。

 

『緒方龍ありて「浜の町病院」生い立ちの姿かたち』と言う書籍の説明文に、「聖福病院の緒方龍ら、朝鮮半島引揚医師の面々。僅か19名の小世帯で走り出した浜の町病院の物語。」とある。

 

名刹「聖福寺」を寺院毎借り受けて、引揚者用の総合病院は、聖福病院と名乗ったようだ。19名の医師は、後の浜の町病院の医師たちのことで、当初の聖福病院では数名の医師たちで運営されていたと思われる。この「正論」に出ている医師たちの名前は、「聖福寮」と言う孤児院で治療と保育を行っていた医師・山本良健京城帝国大学出身の医師・田中正四の3人のみであった。

 

聖福寮と聖福病院で、この「二日市保養所」の物語の背景が出来上がる。

 

RKB毎日放送上坪隆ディレクターは、TVドキュメンタリー「引揚港・水子のうた」「引揚港・博多湾」を製作している。そしてこれを「水子の譜ウタ-引揚孤児と犯された女たちの記録」(現代史出版会、1979年)として出版している。

 

これにより満州や朝鮮での性被害の実態が、明らかとなったのである。日本人が異郷から引き揚げる途中に、何が起きたのか。日本人の歴史意識にしっかりと、定着させなければならない事実ではないのかな。

 

今このことが、日本人の戦争体験から抜け落ちている様に見える。この日本人の引揚体験は、現在のシリア難民などとは比べようがないほどの世界史的体験であろう。

 

国を亡くすということがいかに悲惨な事であったを、如実に示すものであった。

 

「二日市保養所」誕生のいきさつを、この「正論」から引用しよう。

 

 

 引揚者の医療救護に没頭していた前述の医師・田中正四の証言が、「水子の譜」に記録されている。

  彼が京城女子師範で教えた女子学生も、レイプ被害者だった。朝鮮北部の小学校に赴任したが、敗戦後、進駐してきたソ連兵から暴行を受けた。それは数度に及び、暴行の相手も変わった。彼女は妊娠した。両親から相談を受けた田中や泉は、迷ったあげく、中絶手術に踏み切った。

しかし、手術は失敗し、教え子も胎内の子供も死亡した。当時の法律は堕胎を禁止しており、産婦人科の技術水準は未熟な点が多かった。

  この事件を機に二人は、本格的な産婦人科病院の建設に動き始めた。上陸前に将来を悲観して引揚船から身を投げた妊婦もいた。二日市保養所誕生(昭和二十一年三月二十五日)に至る悲劇である。二日市温泉街にある旧海軍保養所が、終戦後、空き家同然の状態だったのを「中絶病棟」として活用することにしたのだ。

  第二章「桜の木の下に眠る子ら」は、二日市保養所医務主任を務めた橋爪将らの証言からなる。橋爪も京城帝大の卒業生だ。・・・・・

「(保養所に)入ってくるときは、ほんと男か女かわかりませんでした。(中略)髪が短くスミでも塗って汚れた服を着ていますと、見分けがつきませんでした。すでに暴行を受け妊娠しているのに、それ以上乱暴されたくないと言う気持ちだったんでしょうね」

「親の見ている前で強姦されたと言う娘さんを、母親が連れてきてましたけど、思い出しては二人で泣いてました。」

  胎児の遺体は、保養所の一角にある桜並木の土手に埋められた。

  看護師だった池上澄江は二日市保養所で、京城の女学校で級友だった女性とであった。彼女は小さな声で「こんにちは」と言った。池上は何もいえなかった。級友に頬に涙が伝わった。それから二週間、二人は一言も話さなかった。池上は手術にも立ち会わなかった。帰る時「どうもありがとう」「おだいじに」と短い会話を交わしただけだった。

  二日市保養所は昭和二十二年秋、約一年半でその役目を終えた。

 

 

博多と共に引揚港となった佐世保でも、状況は同じであった。

 

佐世保港では、引揚援護局が閉鎖される昭和二十五年四月までに、旧満州や南方諸島からの引揚船1,216隻で、合計1,396,468人の引揚者を受け入れている、と言う。ちなみに博多港では、1,392,429人であった。

 

戦後世界各地から日本に引き上げてこられた人たちは、おおよそ660万人と言われている。そのうち約25万人の人たちが、その途上で命を落とされている。丁度広島・長崎への原爆投下で亡くなられた人たちと同じくらいの規模であった。

 

博多港佐世保港では引揚者の約67%が上陸したと言う。先の数字で行くと両港での引揚者の数は、おおよそ279万人となるが、(660-25)万人の67%425万人となり、146万人ほどの差が生じている。終戦直後のことでもあり、それぞれの数字に何らかの不突合が生じているのであろう。

 

さてその終戦直後の八月末に、厚生省が各引揚港の医学関係者に緊急招集をかけている。

 

「引揚げて来る女性の中にはソ連兵や現地住民から暴行され、性病を移されたり妊娠したした女性がかなりの数になると予想される」として、引揚女性の厳格な検診と、「不法妊娠」(暴行による妊娠)の中絶を指示している、という。

 

そのため九州大学医学部では、博多港の引揚者を国立福岡療養所(福岡県古賀市)で、佐世保の引揚者を国立佐賀療養所(佐賀県中原町)で治療した。公式な記録が残されているわけではないが、九大グループでは880の治療を行い、このうち不法妊娠数は少なく見積もって528程度という数字を提示した。これは患者の六割を不法妊娠とみなして算出した推計値である、と「正論8月号」には記載されている。

 

また関東地方の国立病院で引揚女性の中絶手術に参加した」という元女性看護師(90の話も記載されている。それによると、彼女はS21.4.8から11.30までその国立病院に勤務しており、8,9月頃、一週間に三日間、一日4~5人の引揚女性の中絶手術に立ち会ったという。

 

これによると、5月から11月までの7ヵ月間の30週の全てで中絶手術が行われたと仮定すると、 30×3/×5/=450の中絶手術が行われていたことになる。

 

二日市保養所では、400~500件の中絶手術であったと一般に言われているので、ソ連兵や朝鮮人、中国人に暴行されて、不幸にも妊娠してしまった日本人婦女子の数が推定できる。

 

1) 二日市保養所 500

2) 九大グルーブ 528

3) 関東国立病院 450

 

合わせると、1,478人の数となる。これは実際に上記の施設で実際に中絶手術を受けた女性たちの数である。全国で見るとこの数はもっと多くなるであろうし、妊娠はしなかったが暴行を受けたとする日本人婦女子の数は、もっと多くなるであろう。

(続く)