1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ号上での無条件降伏文書調印式に臨む日本側全権団
第二次世界大戦中の1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結し、両国は互いに中立を保った。だが、広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
背景には南樺太(南サハリン)・千島列島のソ連領有を決定したヤルタ秘密協定の存在がある。
8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾し、連合国に降伏。しかしソ連軍はその後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方領土」を占領。ロシア側は「第二次世界大戦で北方領土は合法的に自国領になったと」主張し、現在に至る。
サンフランシスコ講和条約に基づく国境線
1951年、日本は連合国と「サンフランシスコ講和条約」を締結。この条約で日本は、戦前に領有していた台湾や朝鮮半島をはじめ南樺太・千島列島を放棄することが確定した。
サンフランシスコ講和条約に調印する日本全権の吉田茂首相
ここで問題となるのが、「千島列島」が何を指し、最終的にどこに帰属するかという点だ。
調印に先立つサンフランシスコ講和会議では、日本全権だった吉田茂首相が「歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しない」と述べた。しかし、択捉島、国後島については「昔から日本領土だった」と言及するにとどまった。
一方で、外務省の西村熊雄条約局長は1951年10月の衆議院特別委員会で「放棄した千島列島に南千島(国後島、択捉島)も含まれる」と答弁した。
結局のところ、「千島列島」が何を指すのか日本側でもぶれてしまった。サンフランシスコ条約でも帰属は明記されなかった。また、東西冷戦の最中であったことから、西側諸国と対立していたソ連や中国はサンフランシスコ講和条約に参加せず、条約は「片面講和」になってしまった。
・・・・・・・・・・(略)
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/24/hoppo-ryoudo-kaisetsu_n_10113020.html
ソ連は、日本の終戦直前の状態を絶好な好機と考え、
1945.4.5 に「日ソ中立条約」の破棄を通告してきた。
1946.4.25 には、これにより「日ソ中立条約」は失効することになった。そしてまだ有効であったが
1945.8.8 にはその「日ソ中立条約」を一方的に破棄して、対日宣戦布告をしてきた。そして
1945.8.9 未明に満州国、朝鮮北部に侵攻を開始する。
1945.8.11 にはソ連軍は日本領の「南樺太」に侵攻してきた。そして引き続き
1945.8.18 には千島列島最北端の占守島に航空機、揚陸艦を含む大部隊で侵攻してきたが、終戦処理中であった日本軍はこれに対して反撃し、見事撃退した。しかし日本政府の指示で停戦した。その後兵士たちはシベリアに拉致されている。
1945.9.1 には、これを占領した。そして
1945.9.3 には、歯舞群島に侵攻し
1945.9.5 にこれを占領した。その後、
1946.2.2 ソ連邦最高会議が、四島を一括してソ連邦に「編入」した。
北方四島は、1855年の日露和親条約で日本領として確定しているもので、放棄した千島列島には含まれていない。含まれているような話もあったが、日本政府は訂正している。
北方四島はこのように、ポツダム宣言受諾後の不法攻撃であり、明らかに不法占拠である。
日本は絶対にこの暴挙を許してはならない。先にも述べたように、ロシアには無駄金を使わせて経済的に疲弊させてゆかなければならない。日本に対する防衛対策として高額な軍事費を支出させるようにすることだ。日本は何とかして、憲法九条を破棄して国防軍を完備させ核をもち友好国と強固な同盟関係を保ち、ロシアをして怖がらせなければならない。
核に対しての高額な防衛費をロシアに支出させて、経済を疲弊させてゆけば日本の経済援助のありがたさを身に染みて感ずることになろう。その時には北方四島の返還が実現できると言う物である。
単なる信頼醸成だけでは、北方四島は返っては来ない。トランプに期待するのは、日本の核武装で北方四島ではない。
日本の真の近代化は、自分の国は自分で守ることができ、そのためには核武装も厭わず、そして北方四島が確実に日本のものとなった時である。
(終わり)