上記の解説にもある通り、「徴用」は、当時国際法的にも合法的な制度であって、日本においては、当初は日本人だけに適用され、頓馬な朝鮮人には適用されてはいなかったものだ。そして日本政府は、頓馬な朝鮮人なんぞを強制的に徴用などしていない。
先に挙げた「徴用工が韓国の近代製鉄所をつくった」(安部南牛氏、朝鮮問題研究家・元通産相技官)と言う論考によると、階級社会がなかった日本に「搾取」とか「階級社会」などと言うコミンテルン的な概念を広めるために、コミンテルン(国際共産主義運動)構成員と日本共産党が戦時の朝鮮人徴用工を使って、虚偽の作り話を作って強制徴用と言う概念を浸透させていった、と言う事なのである。
先ずは、今少しこの徴用制度を掘り下げてみよう。
(1) 徴用とは、戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること、また、物品を強制的に取り立てること。・・・とWikipediaには記載されている。
(2) 日本が中国との戦争に引き込まれると(7項を参照のこと)、労働力確保の必要に迫られて、「国家総動員法」を制定することになる。
(3) 国家総動員法
1938(S13)年3月、第一次近衛内閣によって、総力戦遂行のため国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定した法律。
対象は、1.労働一般、2.物資統制、3.金融・資本統制、4.産業カルテル、5.価格一般、6.言論出版の6項目。国民徴用は1.項に含まれているが、徴用の仕方などは定められておらず、具体的な方法は「国民徴用令」によって定められることになる。
(4) 国民徴用令
1939(S14)年7月8日に、国家総動員法に基づいて制定された法律。
・国家総動員法第4条の規定に基づく国民の徴用
・ 同 第6条の規定に基づく被徴用者の使用、賃金、給料、その他就業条件に関する命令
・1939(S14)年7月より、日本内地で実施される。朝鮮人は免除。
・1944(S19)年9月より朝鮮人にも適用されるが、1945(S20)年3月に下関-釜山間の連絡船が
運航できなくなり、実質S19.9月からS20.2月までの実質5ヵ月間であった。
(5) 但し、一般募集と言うかたちでは、仕事を求めて内地へ相当数の朝鮮人が、渡ってきている。
従って朝鮮人や共産党が、「全ての朝鮮人が強制徴用された」と言い張るのは完全な間違いで、搾取・階級社会などの概念を流布させるために、捏造されたものである。
実際は、徴用は朝鮮人の間では人気があり、自らも日本企業での徴用に志願した経験を持つ崔基鎬加耶大学教授は、三菱鉱業手稲鉱業所が忠清南道で工員を募集した際、倍率は7倍に上ったと述べている、とこれまたWikipediaに書かれている。
(6) 内地では、労働力不足を補うために、学徒動員や女子挺身隊の名目で学生や女子を工場労働者として動員したが、馬鹿な共産主義者が「慰安婦を女子挺身隊の名目で強制連行した」などと言う話は、全く頓珍漢な間違いで悪意のある捏造である。
(7) 日中戦争などと簡単に言っているが、満州事変については先に少し言及したが、中国大陸でも蒋介石の北伐(共産党軍殲滅作戦)を避けるために、日本軍を蒋介石軍と戦わせるために、紅軍(中国共産党軍)は邦人を虐殺したり、日本軍に対して不意に攻撃したりして、蒋介石との戦争に引っ張り込んでいったのである。当ブログは、主にこの中国共産党の悪行を主テーマとしている、わけである。
(8) 朝鮮人の動員・募集状況はどんなものであったのか。
昭和14年 朝鮮総督府の動員[募集]計画 8万5千人 実績 53,120人 62.5%
昭和15年 〃 9万7千人 実績 59,389人 61.2%
昭和16年 〃 10万人 実績 未達
昭和17年 〃 13万人 実績 未達
昭和18年 〃 15.5万人 実績 未達
昭和19年 この頃からは、名目は募集であったが、
昭和19年8月まで 日本人も含めて、半強制的な動員となっていたケースもあった様だ。
昭和19年9月から昭和20年2月まで 強制力を伴う国民徴用令に基づく動員を実施。
この論考では、朝鮮から斡旋や徴用された人数を、224,300人としているので、上記のデータから動員数を次のように推定する。
S14 53,120(実績)
S15 59,389(実績)
S16 45,000 (推定)
S17 33,000(推定)
S18 22,000(推定)
S19 10,000(推定) 内3,200人程度が徴用令によるとする。
S20 1,791(推定)
合計 224,300人
こんな風に斡旋・徴用された人数を(勝手に)推定すると、国民徴用令で徴用された朝鮮人は、おおよそ5千人程度と推定される。
総数224,300人のうち、僅か5千人ほどが国民徴用令で強制的に徴用されたものであろう。しかし実際には1944(S19)年頃からは、半ば半強制的に徴用されている事例もあるようなので、それらも含めて考えると、強制・半強制的に徴用された朝鮮人は、1万人から5千人前後となり、残りの215,000人から220,000人は自由応募で日本内地に稼ぎに来た朝鮮人となる。
まあ1945(S20)年の終戦時の日本には、朝鮮人(と言っても当時は日本人であった)が約200万人ほどいた、と記述されている。そのうちの224,300人が斡旋・徴用された朝鮮人であった。と言う事は、残りの9割の朝鮮人は、斡旋・徴用などではなく、全くの自分の意思で日本に稼ぎに来ていたものである。これは当時の朝鮮経済が相当低かったことから、当然のことであった。
しかもこの224,300人のうち、国民徴用令やそれに準ずる措置で徴用された朝鮮人は最大でも1万人程度と推定されるので、実質的には5%程度が、強制力のある徴用に該当するものと考えられる、と言う事なので、いわゆる斡旋・徴用された朝鮮人の224,300人うち95%にあたる22万人ほどは、自分の意思で各種の募集に応募してきた朝鮮人だったものであろう。
このように、当時の状況を考えて朝鮮人の大半が、「強制連行」されたなどと言う話ぶりは、全くの見当違いのデタラメであり、これこそがコミンテルンの意図するところだったのである。
(続く)