1.古代に関する素朴な疑問
古代史には、それなりに数々の疑問点が存在しているが、小生にも常々疑問に思っていること、と言うよりも、何故か頭に引っかかっていることが2~3存在している。
一つ目の疑問は奴(な)国のその後の存在である。
AD57年に後漢の光武帝より金印紫綬まで賜っている奴国が、その後の歴史舞台から消えてしまっていることだ。
「漢委奴国王」(漢の倭ワの奴ナの国王)と言う金印は、江戸時代に農民が九州博多沿岸の志賀島(現在は陸続きとなっているが、当時は島だった。)で、水田耕作中に発見し福岡藩に届けられたもので、藩主黒田家の古記録に記載されていると言う。福岡藩の儒学者亀井南冥は、これが「後漢書」に記載されている金印だと判断し、そのため丁重に保管され引き継がれたものと思われる。
Wikipediaには次のように記載されている。
『後漢書』の記述との対応[編集]
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
— 強調引用者
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者(外臣)に対しては、内臣である諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは印綬の項を参照)。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印)
ちなみに金印を下げるひもは紫綬(紫色の紐)で、六色のうち紫は一段と下がった二段目の色であった。これは奴国王が中国王朝に直接仕えている内臣ではなく、外臣(周辺諸国の王)であったからである。
この後漢書の言う「倭国の極南の界なり」と言う言葉は、重要な意味を持つことになるので、気に留めておいてほしい。
後漢書の「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の後にも倭国の記事がある。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
「安帝永初元年(107年)倭国王帥升(すいしょう)ら生口(奴隷)百六十人を献じ請見を願う」と、読んでおこう。この文章がつづいているのであるので念のため。
Wikipediaによれば、
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 — 『後漢書』東夷列傳第七十五
建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。また、安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らが奴隷百六十人を献上し、朝見を請い願った(後漢書東夷伝による)
となっている。
AD57年に後漢の光武帝が、倭国の極南界(一番南に在る)の奴国が朝貢してきたので、「漢委奴国王」の金印紫綬をさずけているし、
AD107年には倭国王帥升(すいしょう)らが、奴隷を160人も献上して朝貢している。
この倭国王は奴国を継いでいる王なのか、別の国の王なのか判然としない。しかし金印紫綬まで賜った奴国はどこへ行ってしまったのか、と言う疑問が小生には残るのであるが、きっとこの帥升は奴国を継いでいるのでしょう。
二つ目の疑問は、「豊葦原の瑞穂の国」のイメージである。
小生が幼児の頃、母親から古事記の話を時々聞かされていたが、物心ついたころにはこの「豊葦原」と「瑞穂の国」とのイメージがあまりにも違いすぎると、そこはかとなく感じていたものである。
水田の広がる瑞々しい景色と葦の沢山茂る水辺とのギャップが、幼少の小生には如何にも奇異に感じられていたのである。小生には、葦原は痩せた土地にしか感じられなかったからである。そんなところに瑞々しい水田が広がっていたのか、とそのギャップに対しての疑問であった。
最近になって長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」を読んで、その疑問の一端が解けたような気がしたものである。
そこには葦原からは、褐鉄鉱が取れたと書かれていたのである。これで「豊葦原の瑞穂の国」と言われることに、納得した次第である。だから神武天皇が、「大和は良い土地だ」と言って東に向かった意味があったのである。鈴もこの話に関係があると言う。鈴なりと言う意味で五十鈴と言う言葉が古代ではよく使われているが、何故鈴がこれほどまでに崇められていたのか、これも疑問であった。
三つ目の疑問は、「卑弥呼」の邪馬台国はどうなっていったのか、と言う事である。
専ら邪馬台国が東遷して、大和朝廷となっていったといった話もあるが、どうしても神武東遷との話とは合わないように感じているのだ。邪馬台国は今で言う福岡市から春日市辺りに存在しており、北九州が舞台であるが、またたとえ奈良県にあったとしても、神武東征は宮崎県が出発地となっているので、全く合わないのである。
邪馬台国については、「魏志倭人伝」にそれなりに詳しく述べられているので、それなりに何処にあったのか解る筈であろうと感じていたのだ、どんな本を読んでもなかなかしっくりとこなかったと言うところが正直なところであった。
と言っても小生にはそれなりの専門知識がある訳でもなく、ただ興味本位で邪馬台国関係の(学術書ではなくて)雑誌や本を読んでいただけであるが、最近「邪馬台国の全解決」と言う中国人の古典漢文学者(としておこう、著作業か)・孫栄健氏の書籍を読んで、それなりに納得したのでこの本を紹介しながら、邪馬台国のあったところを探してゆきたい。
では先ず、この「魏志倭人伝」からみてみることにする。
(続く)