邪馬台国とはなんぞや?(2)

2.魏志倭人伝

 

お分かりのことと思うが、魏志倭人伝」と言う解説(伝)本は独立した一冊の本ではない。

 

魏呉蜀の三国の一つ・蜀の政府の歴史編纂官であった陳寿が、蜀の滅亡(263年)後、魏を継ぐ晋(しん、265~)の重臣に取り立てられて、晋の著作郎(主席歴史編纂官)として仕えていた時に、三国の歴史書・「魏国史」三十巻、「呉国史」二十巻、「蜀国史」十五巻を著わしている。

 

これが唐代に「三国志」六十五巻として一つにまとめられたが、この三つの国史は当時高い評価を受け、陳寿の歴史家としての才能もすこぶる高く評価されている。そのため陳寿の死後(299年)、この三国志晋王朝の公認の歴史書となっている。

 

 

魏志倭人伝と言われる内容は三国志の、「魏国史」・魏書三十の烏丸鮮卑東夷伝東夷伝の中に書かれているが、その東夷伝は夫余・高句麗・東沃沮ヒガシヨクソ・挹婁ユウロウ・濊ワイ・韓・倭人の条(伝)から構成されており、この倭人の条倭人・当時の日本のことが書かれている。これが「魏志倭人伝」と呼ばれているものである。

 

ちなみに東夷とは東の野蛮人と言う意味であり、当時から中華思想は健在であった様だ。

 

 

 

それでは魏志倭人伝の内容を紹介しよう。

 

 

三国志の「魏国史」三十の烏丸鮮卑東夷伝倭人

(いわゆる魏志倭人伝

 

倭人伝の本分は「倭人伝 ZokuWaJinden

http://wajinden.com/魏志倭人伝%ef%bc%88原文-読み下し文-%ef%bc%89/

より借用しているが、色付き()内は小生が付け足した読み方や説明文である。

 

尚、漢字の読みは、20114月発売の人物往来社の「歴史読本・ここまでわかった邪馬台国」を参考にしている。

 

 

東夷伝倭人

 

倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。 旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。

 

郡従()り倭に到る。海岸を循(めぐ)りて水行し、韓国を歴()て乍(ある)いは南し乍いは東し、其北岸、狗邪韓國に到ること七千余里

 

 

始めて一海を渡ること千余里対馬(海)((タイカイコク?)に至る。その大官を卑狗(ヒク)と日い、副を卑奴母離(ヒナモリ)と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路は禽鹿(キンロク)の徑(みち)の如し。余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。

又南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんかい)と日う。一大國(イチダイコク)に至る。官は亦(ま)た卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木叢林(ちくもくそうりん)多く、三千許(ばかり)家有り。差(やや)田地有るも、田を耕すも猶(な)お食すること足らず、亦南北に市糴(してき)す。

又一海を渡ること千余里、末盧(マツロ)國に至る。四千余戸有り。山海に濱(ヒン)して居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく魚とあわび)を捕う。水の深浅と無く、皆沈没して之を取る。

 

東南のかた陸行百里にして、伊都國にる。官を爾支(ニキ)と日い、副を泄謨觚(セツボコ)、柄渠觚ヘイキヨコ)と日う。余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡使の往来して常に駐まる所なり。  (注)至る→到るが正しい。同書339頁参照のこと。



東南のかた奴國に至ること百里。官を兕馬觚(ジバコ)と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模(タモ)と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。

南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌(ミミ)と日い、副を彌彌那利(ミミナリ)と日う。五萬余戸ばかり有り。

南のかた邪馬壱國(邪馬台國?)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬(イキマ)有り。次を彌馬升(ミマショウ)と日い、次を彌馬獲支(ミマワキ)と日い、次を奴佳鞮(ナカテイ)と日う。七萬余戸ばかり有り。


女王国より以北、その戸数、道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。

此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴(クナ)國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗(クコチヒク)有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里

(続く)