邪馬台国とはなんぞや?(3)

男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。古より以来、その使、中國に詣(いた)るに、皆自ら大夫と称す。夏后小康(かこうしょうこう)の子、会稽(かいけい)に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍(こうりゅう)の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこうはまぐり)を捕う。文身し亦(ま)た以て大魚・水禽(すいじゅう)を厭(はら)う。後稍(や)や以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右に、あるいは大にあるいは小に、尊卑(そんぴ)差あり。

その道里を計るに、当に会稽の東治(とうち)の東にあるべし。その風俗、淫らならず。男子は皆露紒(ろけい、かぶらない)し、木綿を以て頭に招(か)け、その衣、横幅(おうふく)にして、ただ結束して相連(あいつら)ね、略(ほ)ぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈紒(ひはつくっけい、折り曲げて結う)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、その中央を穿(うが)ち、頭を貫きてこれを衣(き)る。

 

禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑(こぐわ?)緝績(しゅうせき、まゆを集めて織る)し、細紵(さいちょ、あさ)・縑緜(けん絹、めん)を出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(しゃく、かささぎ)なし。 兵は矛・盾・木弓(きゆみ)を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭(チクセン、やがら)はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)海南島近辺)と同じ。

倭の地、温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣(とせん、はだし)す。 屋室有り。父母兄弟の臥息するに処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うる如きなり。食飲するに籩豆(へんとう、高坏)を用い、手食す。 その死には棺有れども槨(かく)無く、土を封じて冢(ちょう)を作る。始めて死するや、停喪(ていそう)すること十余日。時に当たり肉を食わず。喪主哭泣(こっきゅう)し、他人、就きて歌舞し飲酒す。已(すで)に葬るや、家をあげて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく練・白い喪服を着て沐浴する)の如くす。

 

その行来して海を渡り、中國にいたるに、恒に一人をして頭を梳(くしけず)らせず、蟣蝨(きしつ、しらみ)を去らせず、衣服垢に汚させ、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰(じさい)と為す。もし行く者吉善なれば、共に其れに生口・財物を顧(あた)う、若し疾病し、暴害に遭うこと有らば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずと謂(おも)えばなり。

真珠・青玉を出す。その山には丹(たん、赤土)あり。その木にはだん、くす)・杼(しょ、とち)・豫樟(くすのき)・楺(ぼけ)・櫪(くぬぎ)・投(すぎ)・僵(れき、かし)・烏号(やまぐわ)・楓香(ふうこう、かえで)あり。その竹には篠(しょう、ささ)・簳(かん、やだけ)・桃支((とうし、かづらだけ)。薑(きょう、しょうが)・橘(きつ、たちばな)・椒(さんしょう)・蘘荷(じょうか、みょうが)あるも、以て滋味をなすを知らず。獮猿(びこう、おおざる じこう?)・黒雉(くろきじ)あり。

 

その俗、挙事行来に、云為(うんい、なにかあれば)する所あれば、輒(すなわ)ち骨を灼きて卜(ぼく)し、以て吉凶を占い、先ず卜する所(目的)を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火坼(タク、さけめ)を観て兆を占う。 その会同(かいどう会合での)・坐起(ざき立ち居振る舞い)には、父子男女別なし。人、性として酒を嗜(たしな)む。



魏略いわく、その俗、正歳(正月)四節を知らず、ただ春耕秋収をはかりて年紀と為せり、と】→20114月発売の人物往来社の「歴史読本・ここまでわかった邪馬台国」には、ここにこの文が入っている。「邪馬台国の全解決」のP340の原文にもこの文が載っている。



大人の敬する所を見れば、ただ手を摶(う)ち以て跪拝(きはい)に当つ。

その人寿考、或は百年、或は八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸(一般人)も或は二、三婦。婦人淫せず、妬忌(とき?)せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。

 

租賦(そふ)を収む、邸閣(定格)あり、國國に市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。女王國より以北には、特に一大率(すい)を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都(洛陽)帯方郡・諸韓國に詣り及び、郡の倭國に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。

下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入る。辞を伝え事を説くに、あるいは蹲(うづくまり)りあるいは跪(ひざまず)き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫(あい)という、比するに然諾(わかりました)の如し。

 

その國、本また男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐(こうばつ)すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

 

 

女王國の東、海を渡ること千余里、また國あり、皆倭種なり。また侏儒(しゅじゅ)國のその南に在る有り。人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。また裸(ら?)國・黒歯(こくし)國のまたその東南に在る有り。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかり。

 

 

景初二年三年が正しい?239年か六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将(も)って送りて京都に詣らしむ。

その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて以て到らしむ。汝がある所踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献すはこれ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を假(か)し、装封して帯方の太守に付し假綬せしむ。汝、それ種人を綏撫(すいぶ)し、勉めて孝順為れ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を假し、引見労賜して遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹

臣松之以為オモえらく、地應マサに綈と為すべし、と。漢の文帝、早衣を著、之を弋綈ヨクテイと謂う、是なり。此の字、不體なり。魏朝の失にあらざれば、則ち傳寫者の誤りなり20114月発売の人物往来社の「歴史読本・ここまでわかった邪馬台国」には、ここにこの文が入っている。「邪馬台国の全解決」のP341の原文にもこの文が載っている。

・絳地縐粟(スウゾク)(ケイ)十張・蒨絳(センコウ)五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文(コウモン)錦三匹・細班華(サイハンカ)罽五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜う。皆装封して難升米・牛利に付さん。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜えり」と。

 

正始元年240年)、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝假し、ならびに詣を齎(モタラ)し、金帛・錦罽(ケオリモノ)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、答へて詔恩を謝す。

その四年24312月のこと)倭王、また使大夫伊声耆(イセイギ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木フ ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。

その六年245年)、詔して倭の難升米に黄幢(こうどう)を賜い、 郡に付して仮授せしむ。

その八年247年)、太守王頎(キ)官に到る。倭の女王卑弥呼狗奴國の男王卑弥弓呼(ヒミココ?)と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

 

卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

更に男王を立てしも、國中服せず。更更(コモゴモ)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与(又は臺=台与)年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

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魏志倭人伝、終わり)

(続く)