これを見ると、この倭人の条は、おおよそ三つの部分に分かれている、ようにみえる。
はじめの部分には、帯方郡から倭国に至る行程・地理に関する記述。
真ん中の部分には、倭国の歴史や産物、習慣、社会情勢の記述。
終わりの部分には、倭国と魏王朝との政治・交渉記録がつづられている。
朝鮮半島では、漢の時代BC108年に衛氏朝鮮を滅ぼし平壌付近一帯に楽浪郡を設置したが、後漢末に公孫氏が楽浪郡を支配しその南に帯方郡(中心は今のソウル近辺)を設置した。238年には魏が公孫氏を滅ぼし、楽浪・帯方の両郡を接収・支配した。これを契機に、239年に倭の卑弥呼が、間髪を入れずに帯方郡に使いを送っている。
朝鮮の南岸には倭国の領土・狗邪韓国があり、それを通して朝鮮事情は素早く入手できたものと思われる。そのため倭国女王はいち早く朝貢使を、魏の支配下になった帯方郡に派遣したのであろう。これも魏志倭人伝に記載されているが、景初三年(239年、としておくが)の次の記事である。
『景初二年(三年が正しい?239年か)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。』
※景初2年(238年)公孫淵の反乱を司馬懿が征伐したのであるが、司馬懿は魏の明帝に「1年もあれば十分」と答えており、事実その通りになったとWikipediaの書かれているので、景初2年は戦闘中であり、卑弥呼の朝貢使派遣は翌年(景初3年6月、239年)のことだと思われるが如何?。
3.郡より女王國に至ること萬二千余里。
さて帯方郡から倭国までの工程が記載されている魏志倭人伝の内容を精査すれば、邪馬台国の位置は自ずと判ることになる筈であるが、これが少々と言うよりも相当厄介なことなのである。
今まで幾多の学者先生たちが侃々諤々議論してきているが、いまだにその定まった邪馬台国の位置が判明していないのだ。
ご承知の通り、北九州説と近畿説、はたまた日本各地に邪馬台国が存在するなど、すこぶる入り乱れているのが現状である。日本人がこれを読むと、幾通りにも読めてしまう、と言う事だ。
だからネイティブの人にこの魏志倭人伝を解釈してもらうと言うのが、最も早く邪馬台国に行くつくのではないのかな。
そういう意味で、「邪馬台国の全解決」と言う中国人の古典漢文学者・孫栄健氏の書籍は、見事に邪馬台国の全てを解決している、と小生には思えるのである。
では先ず魏志倭人伝の記述に従って、帯方郡からの邪馬台国への行程・地理を、探ってゆこう。
先ず帯方郡から南下して、更に東に行って狗邪韓国に到ること七千余里としているが、魏志韓伝には三韓の地域は「方(四角形の一辺)四千里ばかりなり」と記されていると言うので、七千里は四千里と三千里に分けることが出来る(同書・邪馬台国の全解決 32頁)。
と言ったところが、先に示した魏志倭人伝の帯方郡から邪馬台国に到る行程地理となろう。
すると不弥国から邪馬台国までは、水行三十日と陸行一月(三十日)と言う行程となる。
同書・邪馬台国の全解決(以後゛同書゛と表現する。) 163頁によれば、水行一日は120里・歩行の三倍、陸行一日は40里だとしているので、
不弥国から邪馬台国までは、水行(20+10)日×120里=3600里となり、これにさらに陸行一月(30)日×40里=1200里を加えれば、4800里となる。
これに帯方郡から不弥国までの行程、10,700里を加えると、(4800+10700=)15,500里となり倭人伝の言う「郡より女王国へ至ること万二千余里。」の12.000里とは全く異なってしまう。
従ってこの不弥国から邪馬台国までを直線的に計算することは、間違いとなる。
明らかに倭人伝は、(郡より女王国に至ること万二千余里。)と言っているので、何かが間違っているのである。
そのため南へと言う方角が間違っているのではないかとして、南は東の間違いではないかとして、邪馬台国は近畿地方にある筈だとして、畿内大和説が幅を利かせることとなる。
(続く)