5. 南のかた邪馬壱國(邪馬台國?)に至る。・・・七万余戸ばかり有り。
さて次に倭国の戸数に焦点を当ててみよう。
1.狗邪韓国 記載なし
2. 対海国 1000余戸
3. 一大国 3000家
4. 末盧国 4000余戸
5. 伊都国 1000余戸
6. 奴国 20000余戸
7. 不弥国 1000余家
8. 投馬国 50000余戸
10その他の旁国 +α
合計 150,000+α以上
先に邪馬台国=倭国=連合国家(集落)ではないか、と結論的に表現したが、そうではなくて、上の表のように邪馬台国も三十カ国の一国とみなすと、倭国は15万余戸の大国家となってしまう。
一戸当たりの人数を仮に4人と仮定すれば、15万戸とは15万戸×4人=60万人と言う大都市となってしまう。実際にはもっと大家族だったと思われるので、6人とすれば90万人と計算上はなってしまう。いくら連合集落であろうと推定しても、60万人規模であれば千葉県の船橋市(2015年62万人)位の規模となってしまう。現在の福岡市は150万都市である。それに近い(ひょっとしたら)90万人もの連合集落が、弥生時代に存在したかもしれない(とは、一寸疑問でもある)。
あの北九州沿岸の地区にこれほど大きな集落連合が、あの弥生時代に本当に存在していたのか疑問も感ぜざるを得ない。
先の分析では、倭国=邪馬台国=連合集落国家ではないか、とした。
すると上表の1~10の国の合計ではなくて、8(投馬国50000余戸)と9(邪馬台国70000余戸)を除いた150,000+α-120,000(投馬国+邪馬台国)=倭国=30,000+α =邪馬台国=70,000余戸となることになる。
その邪馬台国が、魏志倭人伝では七万余戸と言っているので、その他の20か国の戸数はおよそ4万余戸となる筈である。1~7(3万戸),10(4万戸)の国々で、7万戸が倭国、すなわち邪馬台国の戸数となろう。
しかも唐の時代につくられたと言う「晋書、倭人伝」には、「至魏時、有三十国通好、戸有七万」。
「魏の時に至りて、三十国の通交あり、戸は七万有り」と読むと、同書(100頁)に記載されているので、倭国三十国が魏王朝と通好し、その戸数が七万有った、と言う事だ。
倭国全体の戸数が七万戸だと述べている。
「南のかた邪馬壱國(邪馬台國?)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬(イキマ)有り。次を彌馬升(ミマショウ)と日い、次を彌馬獲支(ミマワキ)と日い、次を奴佳鞮(ナカテイ)と日う。七萬余戸ばかり有り。」
この邪馬台国は「女王の都する所」、と表現している。女王国とは言っていない。
「郡より女王国に至る。万二千余里。」の女王国は奴国であった。
「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、・・・」の女王国も奴国であった。
「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。」の倭国は、連合国家を意味する。即ち、倭国=連合国家=邪馬台国= 有三十国通好 、で間違いなかろう。
即ち邪馬台国は三十国の中の一か国ではなくて、三十国その物を表しているものと考えて問題なかろう。だから七万余戸なのである。
即ち女王国=奴国≠邪馬台国=三十国=女王の都する所、なのではないのかな。
倭人は女王国連合を邪馬台国と表現していたのである、と判断して先ず間違いはなかろう。
同書は、こうも表現している。
「伊都国(三十国の一つ)から邪馬台国(三十国全体)への道、現代式に言い直すと、福岡県から日本国への道を探し求めていたのだ。これでは答えの出ようはずがなかった。…ニューヨーク空港からアメリカ行きの便はない」
さて「AD57年に後漢の光武帝より「漢委奴国王」(漢の倭ワの奴ナの国王)と言う金印紫綬まで賜っている奴国が、その後の歴史舞台から消えてしまっていることだ」と冒頭で表現していたが、決して歴史舞台からは消えてはいなかったことになる。
AD239年・景初三年に邪馬台国の卑弥呼が魏朝に朝貢を願い出ているが、卑弥呼が都していた国が邪馬台国を構成する最大の国・奴国であった。一世紀の奴国は三世紀でも倭国の中心の国であったと言う事である。
後漢の光武帝が認めた奴国が、漢が三国に分裂したうちの一つ・魏の国へ朝貢を願い出たのだ。魏としてはうれしくない筈はない。魏こそ漢を継ぐ正当な王朝であるとの意を強くしたこと、間違いがない。
だから光武帝の金印紫綬にあやかって、東夷の小国・倭の奴国に「親魏倭王」の金印を授与したのである。「漢委奴国王」の金印が見つかっているからには、いつか「親魏倭王」の金印も見つかってほしいものである。
一辺2.347cm、四角高さ0.887cm、総高さ2.236cm
https://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印 より。
(続く)