8.女王卑弥呼の墓
同書の223頁からは卑弥呼の墓のことに言及しているので、それを簡単に紹介しよう。
「卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。」と径百余歩と相当大きい。
径百余歩とは、約145mだと言う。かなりでかい。そして、「大いに冢を作る。」とあるように、魏使はその墓を見た可能性が高い。
魏使は伊都国に常駐していた訳であるから、卑弥呼の墓を見たというからには、その墓は女王国・奴国ではなくて、伊都国にあったのではないのかな。
しかも計百余歩というとてつもなくでかい墓であれば、既に見つかっている筈であるが、こんなでかい墓はいわゆる「前方後円墳」に該当するが、卑弥呼の時代は弥生の後期で古墳時代ではない。
従ってこれも「露布の原理」で1/10すれば、「径十余歩」で「奴婢百余人」は十余人となる。
とすればそれに該当するお墓は既に見つかっている。それは平原遺跡ではないのかな。
その遺跡は糸島市前原町にある。東西二つの遺跡により構成されている。
主墳は西のもので、東西17m、南北12mで、幅2~3mの溝が周囲にめぐらされている、という。
円墳ではなくて、「方形周溝墓」と言われるお墓である。その中央部に、W1m×L3mの割竹型木棺が据えられており、副葬品には武器は殆どなく、ネックレスやイヤリング、ピアスと言ったアクセサリー類が多い。
と言う事はここに葬られている人物は、確実に女性ではないか考えられている。
そして従墳は、東西13m、南北8mで、周囲の溝からは16人の殉葬者とみられる寝た状態の遺骨が発見されている。
「・・・徇葬する者、奴婢百余人。」とは、これを十分の一して十余人とすれば、16人の殉葬者とはきっちりと合う。
同書の226頁には、次のように記述されている。
「卑弥呼の墓の条件の一つは「殉葬者のあること」だが、日本国内の弥生遺跡では、殉葬者のある遺跡は、平原遺跡を除くと一例も発見されていない。➀女性であり、②殉葬者がある、となれば、もう答えは一つしかないかも知れない。
この平原遺跡は、三種の神器と同じ、鏡、玉、剣を組み合わせた副葬品を持ち、その被葬者は、女性ではなかったかと推測されている。」
この平原遺跡は、その後の調査から、合計五つの墳墓からなっている。Wikipediaによれば、2~5号墓からは青銅器類の遺物は発見されていないと言う。
しかしこの一号墳からは、40面の破砕された銅鏡が発見されており、そのうち五面は、直径46.5 cmもの大型内行花文鏡であった。
天照大神の「ご神体」の「八咫鏡」が伊勢神宮の内宮に奉安されているが、この大型内行花文鏡と大きさ、形が同じものである、とされている。
「一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐(やひろわに、サメのこと)」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する[2]。
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)
とあり、戦国〜後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。
」
とWikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/八咫鏡)には記載されているが、この内行花文鏡は直径46.5cm、円周は46.5×3.14=146.01cmであり、将にとは言わないが、これに該当するものではないのかな。
この平原遺跡を発掘した考古学者の原田大六氏によれば、この平原遺跡にて発掘された大型内行花文鏡が、八咫鏡そのものであると言う。
次の鏡が、「http://inoues.net/ruins/itokoku.html」から借用した大型内行花文鏡である。
まあ卑弥呼は、この内行花文鏡を大切にしていたものと思われるが、たったの五面でしかない。しかし余程大事なものであったのであろう。
上記説明では四面と書かれているが、実際の面数は五面であった。破砕されていたため復元の仕方によって四面としていたが、正確な復元の結果五面であることが判ったのである。
残りは、32枚が「方格規矩四神鏡」で、内行花文四葉鏡が2枚、四ち鏡が1枚の合計40面(枚)であった、と上記には記載されている。これらは全て漢鏡である。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/houkaku.html より。(京都国立博物館)
ここには、いわゆる有名な「三角縁神獣鏡」は、一面もない。
結論から言うと、三角縁神獣鏡は漢や魏の鏡ではなく、倭国・日本で作られた大量生産品であった。
現在560枚ほどが見つかっている、と言う。
魏の明帝が、景初二年(三年が正しい?239年か)六月に、倭の女王が派遣した大夫難正米等に賜った宝物の中に、銅鏡百枚があったが、これらは「三角縁神獣鏡」ではなかったのである。
百枚のうち40枚は卑弥呼(日巫女または日御子)の墓に埋葬され、残りの60枚は邪馬台国などの各国の王などに配られたものと思われる。
(続く)