邪馬台国とはなんぞや?(26)

神武天皇聖跡難波之碕顕彰碑
http://otube.osakazine.net/e384484.html

 

神武天皇聖跡難波之碕 

地点地域
凡そ東區の上町台地の北端より北區の天満附近に至る地域  
御事蹟
難波之碕は日本書紀に據れば神武天皇御東征の際到り給ひたる所なり
その砌(みぎり)奔潮甚だ急なりし為浪速の國の名を得後難波となれり

-昭和十五年秋 大阪府


大阪府による案内板より敢て原文ママで書き写してみました。なお石碑の側面には、昭和十五年十一月 紀元二千六百年奉祝會という記述があります。

神社の由緒や顕彰碑の碑文などで「神武東征の際…」とか「神武東征が…」という文言がタマに出てきます。
そこで神武東征についてごく簡単に纏めてみました。

 

 

神武東征(じんむとうせい)とは、初代天皇である「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコ)=神武天皇」が日向(現・宮崎県)を発ち、大和(現・奈良県)を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話です。
日本書紀によれば神武天皇は、45(紀元前667)の時、日向の高千穂を発ち、海路瀬戸内海を通り、浪速国(現・大阪府)に上陸して、そこから大和の国に入ろうとします。しかしこの地を支配する長髄彦(ながすねひこ)に敗北し、現在の大阪平野を船で南下し、紀伊国(現・和歌山県)から熊野を経由して大和の国に入り、紀元前660大和国を征服して橿原宮で即位したとされています。

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難波之碕へは非常に速い潮流に乗って到着した、と書かれているが、当てずっぽうに想像して書かれたものではない。

 

このことは、古事記日本書紀に、しっかりとそのように書かれている。

 

ただしここの書かれている紀元前660年などと言う年代は、かなり異なっているようなのでそのつもりで読んでほしい。と言うのも先の書の書名には、「神武天皇即位は紀元前70年だった!」と副題が記載されているからである。

 

 

 

日本書紀巻第3 神武天皇
       (出典:講談社学術文庫 日本書紀(上) 宇治谷 孟氏著)



東征出発



・・  略  ・・・・・・

11月9日 天皇は筑紫の国の岡水門につかれた。

12月27日 安芸の国について埃宮(えのみや)においでになった。

翌年乙卯(きのと・う)春3月6日に吉備国に移られ、行館(かりのみや)を
造っておはいりになった。 これを高島宮という。

3年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

戊午(つちのえ・うま)の年、春2月11日に天皇の軍はついに東に向かった。

舳櫨相つぎ、まさに難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって大変早く着いた。

よって、名づけて浪速国とした。

また、浪花ともいう。今難波というのはなまったものである。

3月10日川をさかのぼって、河内国草香村の青雲の白肩津に着いた。

 

(略)

 

http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/kojima/jinmu.htm

 

 

 

難波(なにわ)
なにわ

 

大阪の古地名。浪速、浪華、浪花とも書く。

 

地名の由来は、

 

日本書紀』(神武(じんむ)天皇即位前紀戊午年)に

 

皇師遂(みいくさつい)に東にゆく。舳艫相接(ともえあいつ)げり。方(まさ)に難波碕(なにわのさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)ありて太(はなは)だ急(はや)きに会いぬ。因()りて名づけて浪速国(なみはやのくに)とす。亦浪花(またなみはな)と曰()う。今難波(なにわ)と謂()うは訛(なま)れるなり

 

との神話伝承によるが、異説もある。

 

古代の難波は、南北に延びる半島状の上町(うえまち)台地の北部一帯(先端は難波碕)から西、北縁の砂堆(さたい)を占め、東に難波江、西に難波乃海(なにわのうみ)(大阪湾)に接し、水陸交通の要衝をなしていた。そこに難波津の港が栄え、三韓や隋(ずい)、唐の使節を迎えて鴻臚館(こうろかん)が設けられた。

 

また、たびたび皇都としても選ばれ、難波大隅(おおすみのみや)(応神(おうじん)帝)、難波高津宮(たかつのみや)(仁徳(にんとく)帝)、祝津宮(はふりつのみや)(欽明(きんめい)帝)や難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)(孝徳(こうとく)帝)、難波宮(天武(てんむ)帝、聖武(しょうむ)帝)などが造営された。

 

中世、難波は衰微したが、台地北端に石山本願寺、ついで大坂城が築造され、以来もっぱら大坂(阪)の名で知られ、一方、難波の名は荘園(しょうえん)名また村名として、現在に残った。[位野木壽一]

https://kotobank.jp/word/難波%28なにわ%29-1572458

 

 

古代の難波は、南北に延びる半島状の上町(うえまち)台地の北部一帯(先端は難波碕)から西、北縁の砂堆(さたい)を占め、」と書かれているように、上町台地と言う半島で西に大阪湾、東に難波江と言う湖水があり、今のような一体となった平野ではなかったようだ。そして上町台地の先端は

海流により砂礫が堆積し台地が伸びて(?)狭い海峡のようになっており、満ち潮、引き潮の時は相当早い潮流が流れていたようである。

(続く)