邪馬台国とはなんぞや?(27)

神武天皇が大阪湾に到達したときは、丁度満ち潮時で、大阪湾からその湖水状のみずうみへは海水が流れ込んでおり、その早い潮流に乗って上町台地の反対側にたどり着いた、と言った状況が書かれているのである。その上町台地には、現在は、東側には大阪城、西側のやや南には生国魂神社が乗っている(建てられている)。

 

長浜浩明氏の先の書「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)では、このことからと言う訳でもないが、大阪平野の成り立ちの考察から始まっている。

 

氏は現在の上町台地の西側を大阪平野、東側を河内平野と分けて呼んでいるが、その第一章の表題は、「かって大阪・河内平野」は海だった」としているほどである。

 

先の書によれば長浜浩明氏は、東京工業大学建築学科、同大学院修士課程環境工学専攻を終了している工学修士であり、昭和48年に(株)日建設計に入社している。そして大阪本社で新人研修を受け生国魂神社の社伝や、それ以後、大阪平野などの地質調査結果に接し、嘗ては大阪平野や河内平野が海だった歴史があったことを知り、ある種の感慨を受けたと記している。

 

大阪平野や河内平野には、日本経済の高度成長と共に高層建築物が建てられていったが、そのためには地質調査が必然であった。そのため各所がボーリング調査され、しかもサンプルは炭素14年代により科学的に調査され、その結果、大阪平野の成り立ちが詳細に明らかとなっていった。

 

この過程を詳しく調査されたのが、大阪市立大学の地質学教室(1950S25年に設立)の梶山彦太郎氏市原実氏の両教授たちであった。

 

それによると大阪平野は次のような経過で成立していったと言う。(1950年を起点

先の書に従って、簡単にまとめてみる。

 

 

(0) 大阪平野の時代二万年~九千年前) ウルム氷河期で海水面は100m以上低い。 ナウマンゾウの時代。

 

(1) 河内湾Ⅰの時代七千~六千年前) その後の温暖化により海面が上昇、古大阪平野に進入した海水は生駒山の麓まで押しよせていた。大阪城から5kmほど東北東の茨田諸口からクジラの骨が出土している。縄文海進と言う。

 

(2) 河内湾Ⅱの時代五千~四千年前) 大阪城公園の東南の角に、JR環状線森ノ宮がある。

  ここに縄文時代から弥生時代に掛けての貝塚があり、下部には海の牡蠣が積まれており、上部はセタシジミと言う淡水貝で、その貝塚は終わっている。ここは上町台地の縁にあたり、すぐ海が迫っていた様だ。しかし沖積作用によりやがて海は閉鎖されて淡水化していったことが、このことから判るのである。

 

(3) 河内潟の時代三千年~二千年前) 即ち紀元前1050から紀元前50年頃になると河内湾は更に埋めたてられて海から潟へと変わっている。1950-3000=1050となる。先の森ノ宮の上部がセタシジミと言う淡水貝に変わっていたと言う事は、河内湾が潟に変わったことの、証となろう。また生駒山の麓にある日下貝塚でも淡水貝のセタシジミに変わっている。
  この時代になると、「上町台地から延びる砂州は更に北進し、開口部は狭まり、河内潟に流れ
込む河川水はここから大阪湾へと流れ出ていたが、満潮になると狭まった開口部を通って海水が潟内部へ逆流し、四~五キロ奥の大阪城辺りまで達した。そして干潮になると、潟の水は開口部から大阪湾へと勢いよく流れ出た。これが浪速、難波の由来であろう。」と、先の書には書かれている。

  そして干潮時になると川が浮き出て、川を遡上することが出来たと、梶山彦太郎氏も指摘していると言う。
  まさに日本書紀の言う「舳櫨相つぎ、まさに難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって大変
早く着いた。」とか「3月10日川をさかのぼって、河内国草香(日下)村の青雲の白肩津に着いた。」という表現は、将にこの時代のことを如実に表していることではないか。

 

  と言う事は、神武東征はこの時代に行われたことであり、実際にあったことの表現であろう。

(4) 河内湖Ⅰの時代千八百~千六百年前) 即ち西暦150年~350年頃には、河内潟は湾口が閉ざされて湖となっている。上町台地砂州が伸びて湾口が閉ざされてしまったことになる。

  その砂州の東側の当たる淡路町では、セタイシガイと言う淡水貝が出てきているから、潟は湖となり、河内湖となり水は大阪湾へ流れ出ていただけとなっている。この時代は丁度卑弥呼時代と重なり、この時代では先の日本書記の表現は全く成り立たないことになる。従って「神武一行の難波の碕への侵入はこの時代ではない」ことになる。

(5) 河内湖Ⅱの時代(千六百年前以降、西暦四百年~) この時代には河内湖は淀川などのデルタが発達し湖は益々小さくなり、しばしば洪水を起こしていたようである。そのため仁徳天皇溢れた水は海に通じさせ、逆流を防いで田や家を浸さないようにせよ」と言って、堀江の開削を命じている。今の大川である。

 

 

こうして神武東征年代とは「河内潟の時代」以外はありえないことが確認できた。すると、神武東征を事実とし、且つ「邪馬台国が東遷した」や「邪馬台国を滅ぼした狗奴国が東征した」は成り立たなくなる。』と長浜浩明氏の先の書「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)は、この第一章を締め括っている。

 

 

ここら辺の事情を説明しているブログを次に紹介しよう。大阪平野が河内湾から河内潟へ、そして河内湾へと変遷して、河川の沖積作用によって(大阪)平野へと変わっていく様が理解できよう。

(続く)