邪馬台国とはなんぞや?(28)

親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)

「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明

2015-12-02   http://oyakochoco.jp/blog-entry-1169.html

   (略)

 

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!

 

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   『 (大阪城)大手門を出て左に曲がると、小さな公園の片隅に古風な掲示がありました。何が書いてあるのか近づいて読んでみると、

「ここはかつて難波碕なにわのみさき)と呼ばれ、生國魂神社いくくにたまじんじゃ)があったが、豊臣秀吉公が大阪城築城に際し天王寺の方へ移させた」

と書いてあり、ここが神社が旅立った「お旅所どころ」だとあるのです。

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生国魂神社20151122115322c2d
 奇妙な話につられ、行ってみようと思ったものです。そこから西に向かい、上り坂を歩いて谷町筋に出て、谷町四丁目交差点を左折し、天王寺方面へしばらく行くと右手に生國魂神社がありました。

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生國魂神社 生国魂神社2015112211540974e

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生國魂神社 生国魂神社myhome323232

お参りを済ませ、どのような神社なのかと【いくたまさん】なるパンフレットを読むと次のようにあったのです。

悩む女の子2

御由緒

難波(浪速)と呼ばれた古代の大阪は、【南北に連なる台地】より成り【三方を海に囲まれた本流の打ち寄せるところ】であった。現在の上町台地である。

上町台地(緑色)の稜線部を旧熊野街道(橙色破線)が走る
上町台地(緑色)の稜線部を旧熊野街道(橙色破線)が走る
上町台地201511221207360b9

この上町台地周辺の海上には、【大小さまざまな島】が浮かんでいた大和川と淀川が上町台地の北端で交わって一筋の大河となし、上流より運ぶ砂礫が堆積して砂州となって、次第に島々(島嶼)を形成したのである。

 いわゆる難波の「八十島(やそしま)」である。この島々がやがて陸地と化し現在の大阪の地形が形づくられた。今も市内に残る堂島福島弁天島などの【「島」のつく地名が、古代を物語っている】。漸く、大地生成の壮大かつ神秘に満ちた大自然の営みは、「八十島神」と称えられ、『古語捨遺(こごしゅうい)』に「大八洲(おおやしま)の霊――日本列島の御神霊(ごしんれい)」(国土全体の国魂の神)と記された生島(いくしま)大神足島(たるしま)大神(生國魂大神)の御神徳によるものであり、万物創造・生成発展の御神威の発揚に他ならない。

 古代の大阪上町台地が中心であり、沖積作用により海が埋め立てられ多くの島々ができ、今日の大阪平野が出来上がったというのです。次いで『創祀(そうし)』を読んでみました。

創祀

社伝によれば、神倭伊波礼毘古命(かむいやまといはれびこのみこと / 第1代神武天皇)が御東征の砌(みぎり)、大阪の起源ともいえる上町台地の北端の地(難波之碕――現在の大阪城一帯)に、天皇御親祭により、国土の平定・安泰を願い大八洲(日本列島)の御神霊であり国土の守護神である生島大神足島大神をお祀りなされたのが生國魂神社の創始と伝わる。当神社【大阪最古にして、大阪の総鎮守と称される所以】である。その後、大物主大神を相殿神としてお祀りする。

神武東征
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 何と神武東征のおり、ここに生島大神足島大神を祀ったのが始まりだ、という話が大昔から語り継がれ今日に到っているのです。

驚き 2

 記紀は、神武天皇は船で難波碕に上陸したと記し、生國魂神社の社伝にも神武天皇がやって来たとあります。近くに大阪湾や淀川もあるのですが、大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地】。如何に大昔とはいえ、本当にこの辺りは海か湖だったのかどのような地形だったのか、見当もつきませんでした。

(続く)