邪馬台国とはなんぞや?(31)

海面の上昇は続き、今から6000年前海水面現在よりも1~2メートル高くなり(縄文海進)生駒山の麓まで海水が流れ込んでいきました。これが「河内湾1の時代 約7000年前~6000年前」です。

河内湾1
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やがて、海水面の上昇が終わり、縄文海退の時代へと向かいます。これは、海水面が低下していくということよりも、それ以上に、河川から運ばれてくる土砂によって海が埋まっていく、これを沖積作用というのですが、要するに自然の力による「埋め立て」が起こったんです♥「河内湾2の時代 約5000年前~4000年前」です。

河内湾2
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そして時代は、「河内潟の時代 約3000年前~2000年前(西暦紀元前1050年~前50年)へと繋がります。

河内潟
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上町台地から北進する砂州が、開口部を狭めていることが見てとれますね♥

当時、河内潟に河川から流れ込む水は、この開口部を通って大阪湾へと流れ出ていました。

ただし、一方通行ではなく上げ潮時(当時の大阪湾の干満差は約2メートル)には、逆に大阪湾の海水が開口部から河内潟内部へと流入し、現在の大阪城辺りにまで達していました。そして、引き潮時には、再び河川水とともに流入した海水も大阪湾へと流れ出ていったんです♥

それを示したのが、下の古地理図です。大阪湾の海水域、河内潟内陸部の淡水域、そしてその中間点にある汽水域が見てとれますね♥

河内潟時代
画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 大阪平野の古地理図 


https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/16/pdf/16_1_2.pdf

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この汽水域こそが、「潟」だったんです♥上げ潮時には、大阪湾からの海水が流入し、大阪城南森町付近までが海となり、引き潮時には干潟となり、さらに生駒山の麓に至る内陸部では、古地図に示されている複数の川筋が浮き出ていたんです

日本書紀には、次のように書き遺されています。

「まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。」
川をさかのぼって河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。」

上げ潮に乗って、河内潟内部へと進み、難波碕に上陸、そして干潮時に、難波碕から東の日下へと向かって東西を結ぶ一筋の川筋、まさにこの川を遡って行った。。。すべて、辻褄が合っていますね♥

で、いまでも残る当時の名残が、大阪湾最大の干潟「十三干潟」です♥


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詳しくはこちらから♥ ⇒ 大阪湾最大の干潟 十三干潟 ↓
http://www.tosibunka.co.jp/jusohigata/jusohigata_index.html

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当時の河内潟時代には、きっと冒頭でご紹介しました福島潟のような風景が、より広大に広がっていたんでしょうね♥


画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 新潟市/福島潟の春風景・菜の花とヨシ焼き  

https://blogs.yahoo.co.jp/akita678/46369273.html


ということで、本日はこれまでです♥

続きは次回に♥

(略)

 

http://oyakochoco.jp/blog-entry-1169.html



この”親子チョコ”のblogの冒頭に、「戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。 そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。」と書かれている様に、

 

神武天皇に関して、こんな重要なことで、しかも簡単なことが、何故今迄世に広められていなかったのであろうか、と全く不思議である。大阪平野の地質調査は、大阪の発展とともに必然的に進められ、そのため大阪平野の成り立ちが科学的に明らかになっていった訳であるが、これって、何も懐古主義にのっとって進められたものでも何でもない。大阪の経済の発展に沿って高層建築物を立てる必要に迫られ、そのために地質調査が科学的に進められていった次第である。

結果として大阪平野の成り立ちが明らかになってきたと言う事。

(続く)