邪馬台国とはなんぞや?(33)

 

それから一言断っておきたいことは、日本国憲法も、GHQによって作られた状態のまま継続されてしまったことである。

 

こんな状況では、古事記や日本書記が丁寧に貴重な歴史書として扱われる筈がなかった。

 

 

戦中、戦後の想い出

http://www.rose.ne.jp/~ooha/hp-0-1.htm

   [ 13 : 教職追放、教員組合左傾化の背景 ]

占領軍による教科書や教材の削除状況の検査、教育内容に関する検査、取り締まりがおこなわれると共に、その指令に基づき政府は昭和 21 年 ( 1946 年 )5 月 7 日に、 教職員の除去、就職禁止及び復職等の件 という勅令 263 号を公布して、各都道府県に教職員適格審査委員会を設置しました。

それにより全国の 60 万人 を超える教職員の全員について、本人提出の調査表に基づいて個別に適格性審査を実施しましたが、審査担当者には 結成されたばかりの教職員組合の役員も参加し、教師が教師の過去の行為、言動を裁く という事態になりました。

過去に軍国主義や極端な国家主義的教育に積極的に荷担し、指導的立場にあったとされた教職員や、軍国主義的教育を強制したとの告発や極端な愛国主義者として誹謗中傷の投書のあった者など、教職不適格の烙印を押された者はすぐに 追放解雇 されました。

このことが戦後の マルクス ・ レ-ニン 主義の流行と併せて、左翼主義的教職員の増加と勢力の拡大を助長し、教職員組合左傾化を強める根本の原因となりました。

追放された者の リストには戦時中の中学、女学校 ( 現在の高校 )、国民学校 ( 小学校 ) の校長や、平の教員では少年兵への応募の強制、木刀を 2 百回生徒に振らせた、生徒に対する ビンタ などの日常的暴行、米国旗侮辱、戦前に米国から日本に人形使節として送られた青い目の人形を焼いた、などの行為を摘発された者もいました。

http://www.rose.ne.jp/~ooha/hp-4.htm#tsuihou

 

 

 

このような状況の中で、古事記日本書紀などはタブー化されてゆき、「神武東征は事実だ」などと言ったら、「闇の検察官」からパージされ、研究室から追放され、原稿は出版社が受け付けず、論文は没になり、職と食を失いかねない恐怖があったと言う事だ。と先の書は記している。

 

そして次のような「暗黙の了解」、則ち「古代史検閲基準」なる亡霊が成立してゆき、歴史学者たちはこれらに拘束されていったのである。

 

「暗黙の了解」事項とは次のようなものである(先の書、86~87頁)。簡潔にまとめてみる。

 

 

 『記紀』は天皇を正当化するために捏造された偽書として否定し、目をそらす。

 

 神武東征やその存在を否定し、国民に知らせない。

 

 神武から開化天皇(九代)まで否定し、崇神天皇から神功皇后も否定的で皇室の連続性を否定する。

 

 そのため記紀魏志倭人伝を間違いだと改変することはよい。

 

 『三国志』の韓の条や『三国史記』の古代史にも目をつむり、国民の目から遠ざける。

 

 戦後パージから逃れるために創られて古代史の諸説は、検閲に合うよう改鼠されたものであるが、そのことを国民に知らせてはならない。

 

 

これではあまりにも滅茶苦茶な話である。こんな風に日本国の歴史が冒涜されていたとは、当時は小生にはわからなかった。

 

ただ、小生も東大教授の『井上光貞』氏の歴史書を読んで古代史の知識を頭に入れて育った?ものであったが、いくら読んでもなんとなくしっくりこなかったと言うどんよりとした感じが存在していたので、途中で読むのを止めた経験がある。

 

大正六年(1917)生まれの氏は昭和二十三年「教員適格判定審査」に晴れて合格、占領政策協力者として公認された。こうして教壇に立つことが出来た氏は、やがて東大教授となり「日本の歴史1神話から歴史へ」(中央公論社1965)において神武東征否定の考えを披露した。』と先の書の88頁に書かれているが、これでこの本を読んでもしっくりこなかったことに納得がいった次第である。結局時間を潰してしまった、と言う事である。

 

彼・井上光貞氏は「邪馬台国東遷」論者なのであるが、それが間違ったものであることを、先の書では次のように否定している。

 

邪馬台国東遷」なら、卑弥呼の後継者・壱与がシナに最後の使いを出した二六六年以降となろう。だがそれは「河内湖Ⅰの時代」であり、神武東征のあの描写はありえない。この一事で氏の仮説は破たんしたことになる。」と彼の論を喝破している(88頁)。

(続く)