邪馬台国とはなんぞや?(43)

さてこの神武東征の話は古事記の神話として片づけてしまうには、客観的な証拠が存在していることから、誠に惜しい気がするものである。以上みてきたように、実際にあったことを反映した記憶なのであろうと思われる。

 

だから古事記日本書紀はまがい物だとして、避けてきて戦後の教育界の堕落から、今こそ立ち直るべきなのである。この「長浜浩明氏」の研究は、誠に当を得たものであり、広く認めて流布されてしかるべきものである。

 

その長浜浩明氏が、「日本建国史~神武東征と邪馬台国の謎を解く」なる講演を、H29.02.11の「日本の建国をお祝いする集い」でなされている。

 

その講演が次のURLに載っているので、是非訪れてほしい。

 

日本建国史~神武東征と邪馬台国の謎を解く

(H29.02.11 日本の建国をお祝いする集い)              講師:長浜浩明先生

https://touron.live/event/?eid=3&mode=detail

 

 

なおその趣旨をまとめたものがあるので、それを次に載せる。時間がない方はこの趣旨を読まれるとよい。

 

ただし内容的には当ブログで長浜浩明氏の論考の趣旨は説明してあるので、重複することにはなることをお許し願う。

 

 

ちなみに記紀において、百歳を超える天皇崩御年が記録されていることから、何らかの意図をもって捏造されたものではないかなどと疑問の目を向ける研究者もおり、なんらかの政治的な意図があったとの批判がある。

 

しかしながらこれは一年を二年と数える「春秋年」にて計算されていたからであり、記紀の編纂者は疑問を持ちながらも帝紀旧辞などの記録を訂正することなく、古資料に忠実に従って記紀を編纂したものと思われる。

 

この春秋年は魏志倭人伝にも、「魏略にいわく、その俗、正歳(正月)・四節を知らず、ただ春耕・秋収をはかりて年紀と為せり、と。」と載っており、春の耕作と秋の収穫をもって年紀としていたのであり、一年の春と秋をそれぞれ一年、二年と数えていたので、二倍となっていた訳である。

 

このこともこの講演には詳しく述べられているので、参照願う。

 

まあこのことを考えてみても、記紀には何らかの政治的な意図などはないことの証明となろう。

 

 

日本建国史~神武東征と邪馬台国の謎を解く

https://touron.live/event/?eid=3&mode=detail

(H29.02.11 日本の建国をお祝いする集い)              講師:長浜浩明先生

趣旨



神武天皇を裏付けた「大阪平野発達史」

■戦前に教えられていた建国史とは

子供の頃、生家の床の間には「天照大神」と大書した掛軸が掛けられ、その上には今上陛下の婚礼写真が掲げられていました。では天照大神とはどのような神様だったのか、ご存じない方もおると思うので、戦前に教えられていた建国史の一端を紹介します。この根拠が日本書紀720年に第44元正天皇に奏上)です。ですから戦前は誰もが日本の建国を答えられました。「日本は神武天皇が橿原の地に第一代天皇として即位された皇紀660211日に建国されました。それが今上陛下の御先祖様であり、私たち日本人には神武天皇の血が入っており、皇室は私たちの祖先なのです。そして皇室のご先祖様は天照大神です」と。日本書紀の特徴は、神武天皇以後を歴史時代とし、その前を「神代」としたことです。神代には不可解な話も多いのですが、古代の人々はそれを「神話」として区別する理性を持っていたことが分かります。

生國魂神社神武天皇が祀られたのが始まり

生國魂神社に)お参りを済ませ、どのような神社なのかと【いくたまさん】なるパンフレットを読むと次のようにあったのです。


御由緒 難波(浪速)と呼ばれた古代の大阪は、南北に連なる台地より成り、三方を海に囲まれた本流の打ち寄せるところであった。現在の上町台地である。この上町台地周辺の海上には、大小さまざまな島が浮かんでいた。大和川と淀川が上町台地の北端で交わって一筋の大河となし、上流より運ぶ砂礫が堆積して砂州となって、次第に島々(島嶼)を形成したのである。いわゆる難波の「十島」である。これらの島々がやがて陸地と化し、現在の大阪の地形が形づくられた。今も市内に残る堂島、福島、弁天島などの「島」のつく地名が、古代を物語っている。斯く、大地生成の壮大かつ神秘に満ちた大自然の営みは、「八十島神」と称えられ、『古語拾遺』に「大八州の霊―日本列島の御神霊」(国土全体の国魂の神)と記された生島大神足島大神(生國魂大神)の御神徳によるものであり、万物創造・生成発展の御神威の発揚に他ならない。古代の大阪は上町台地が中心であり、沖積作用により海が埋め立てられ、多くの島々ができ、今日の大阪平野が出来上がったというのです。次いで『創祀』を読んでみました。


創祀 社伝によれば、神倭伊波礼毘古命(第一代神武天皇)が御東征の砌、大阪の起源ともいえる上町台地の北端の地(難波之碕―現在の大阪城一帯)に、天皇御親祭により、国土の平安・安泰を願い、大八州(日本列島)の御神霊であり国土の守護神である生島大神足島大神をお祀りされたのが、生國魂神社の創祀と伝わる。当神社が大阪最古にして、大阪の総鎮守と称される所以である。その後、大物主大神相殿神としてお祀りする。何と神武東征のおり、ここに生島大神足島大神を祀ったのが始まりだ、という話が大昔から語り継がれ、今日に到っているのです。記紀は、神武天皇は船で難波碕に上陸したと記し、生國魂神社の社伝にも神武天皇がやって来たとあります。近くに大阪湾や淀川もあるのですが、大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地。如何に大昔とはいえ、本当にこの辺りは海が湖だったのか、どのような地形だったのか、見当もつきませんでした。【略】

■現在の大阪平野は、河内湾、河内潟、河内湖の時代を経て生まれた

大阪市立大学に開設された地学教室の)この研究は、約2万年前のウルム氷期から縄文時代を経て、現在の大阪平野が出来上がるまで、その形成過程を調べることを目的としていました。戦後の復興期、大阪でも多くの高層建物が建設され、戦後数十年に亘り隈なく掘られた地盤の調査資料から、大阪の地下構造と形成過程が明らかになっていったのです。この研究の優れた点は、採取されたサンプル年代を「炭素14年代」により確定したことにあります。…1950年、シカゴ大学のリビーが炭素14年代計測法を確立し、その9年後、この手法を日本に導入した学習院大学の木越邦彦氏の慧眼に敬意を表します。大阪市立大学教授の市原実氏らは学習院大学の協力を得て年代測定を繰り返し、大阪平野の発達過程を七つに区分しました。

・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年~6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年~4000年前
・河内潟の時代:約3000年~2000年前(BC1050年~BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年~1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代~大阪平野IIIの時代:約1600年前以降

その後、新たなデータを基に修正が加えられ、『続大阪平野発達史』、『大阪平野のおいたち』が公表され、この研究がわが国の建国史を明らかにしたのです。【略】

■「河内潟の時代」の理解が要となる

(河内湾IIの時代[約5000年~4000年前]より)更に2000年が過ぎ、縄文晩期から弥生中期前葉(約3000年~2000年前)、即ち、1050年から前50年頃になると、河内湾は更に埋め立てられ、海から潟へと変わって行きました。これを「河内潟の時代」と呼んでいます。『大阪府市第一巻』に図が載っています。これは「河内潟の時代」(1972年)の図であり、この時代、上町台地から伸びる砂州は更に北進し、開口部は狭まり、河内潟に流れ込む河川水はここから大阪湾へと流れ出ていました。 大阪湾の干満差は約2mと大きく、上げ潮になると海水が狭まった開口部から潟内部へ流入し、45km奥の大阪城の辺りまで達していました。そして引き潮になると潟に流入した海水は、河川水といっしょに開口部から大阪湾へと勢いよく流れ出ていたのです。【略】この図の外形部分を示す太い実線は満潮時の汀線を表しています。‥‥河内潟開口部から森小路大阪城辺りは水域を保っており、その奥の地形を梶山彦太郎氏は次のように説明していました。
「先に、河内潟の潮間帯(満潮と干潮の間)は、有明の干潟のように、泥の深いところであると書きました。しかし川の流れる筋のみは、上流から流されてきた土砂が積もってシルト(砂と粘土の間)または砂地となって、干潮時に、川底づたいに川の末端まで容易に行くことが出来ます。」(『大阪平野のおいたち』86頁)
ここに至り、日本書紀の記述が生き生きとよみがえってきたのです。永久に分からないと思っていた次なる描写は「河内潟の時代」の地形に則って描かれていたのです。「まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。」「川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。」 そうか、生國魂神社の社伝通り、神武天皇はこの時代に船でやって来たのだ。上げ潮に乗り河内潟内部に漕ぎ進み、干潮時に川を遡上し日下に着いたのだ、と確信したのです。

(続く)