邪馬台国とはなんぞや?(46)

魏志倭人伝倭国は、北部九州と半島南部一帯をさす

戦後の古代史論は記紀の否定、わけても日本書紀の否定から始まり、かわって重視されたのが魏志倭人伝でした。この書は、南朝・宋の陳寿233297)が編んだ『三国志』魏書・東夷伝倭人の条であり、これを中心にわが国の建国論が展開されてきたのは、陳寿邪馬台国卑弥呼、壱与の同時代人であり、当時の倭国を知っていた、と考えられたからです。そして、今までの歴史家は「倭国倭人」を「日本・日本人」としていたのですが、そうではなく、この書にある「倭国」とは北部九州が中心であり、倭人の住む地域とは、北部九州に加えて半島南部一帯をさす、と捉えることで古代史の見通しが開けるのです。【略】

このように(注:魏志倭人伝に記されているように)、倭国とシナは古より交流し、シナは当時の倭国の状況を詳しく知っていました。しかも『三国志』にある「倭人」の条は、「高句麗」や「韓」(馬韓辰韓弁韓)に比べても記述量も多く、詳しく書かれています。ですから私は、魏志倭人伝などは古代日本を知るうえで必要欠くべからざる史料価値を持っており、これらを無視して古代史を論ずることは出来ない、という立場です。ではこの書で古代日本の何が分かるのでしょう。【略】

■女王国は不弥国から1300余里以内の距離

魏志倭人伝には)先ず「その北岸狗邪韓国に到る」とあるように、「その」は「倭」を意味し、「倭人」の地域が「狗邪韓国」とは奇異に感じますが、「韓」(馬韓)の祖先は「倭」だったのですから、この理解は当を得ています。半島の南部は倭人の住む地域だったということです。そして女王国、すなわち邪馬台国の都より北にある、女王国連合に属する国名が21並び「これ女王の境界の尽きるところなり」とあります。次いで、「帯方郡より女王国に至る一万二千里」とあり、この文章からシナ人の理解する倭国の領域は、半島南部から対馬壱岐を経て北部九州を含む地域を指しており、女王の都、邪馬台国も北部九州にあることは明らかです。理由は簡単、帯方から女王国までは12000余里であり、帯方から不弥国までは10700里なのだから、不弥国から女王国までの距離はその差1300余里以内となります。

しばしば「短里か長里か」と論じられていますが、論ずるまでもなく、狗邪韓国から対馬までの約70kmを千余里とし、対馬から壱岐壱岐から末廬国も千余里あることから、この書は「1里=約70m」としていたことが分かります。すると、邪馬台国は不弥国から70m1300倍、最遠でも半径90km以内となり、川は蛇行し、日本のように山地が多いところでは道も直線ではあり得ず、山や川の迂回を考慮すれば、概略4564km以内になるでしょう。

加えて注意すべきは、シナの使節倭国にやってくるのは気候が安定する5月から6月にかけてです。夏至620日頃であり、そのときの太陽は真東から約23度北から昇ることになります。すると地図上で東に向かうと、やや南に向かう、と感じられることになります。
そして御笠川河口辺りから遡上し、太宰府辺りにある投馬国に向かうと、これが南への水行となります。そこから陸行し、筑後川支流の船着き場に行き、その後、水行と陸行を交えながら筑後川を南下すれば、方位といい、距離といい、筑後川下流域の南方、旧山門郡周辺が有力候補となります。魏志倭人伝に書いてある通りに読めば、話は簡単なのです。【略】

邪馬台国は旧山門郡瀬高町と推定

では女王の都する邪馬台国は具体的にどこにあったのか。それは新井白石に始まり津田左右吉や様々な歴史家が比定した場所なのですが、旧地番で福岡県山門郡瀬高町と推定しています。具体像としては、現在のみやま市瀬高町女山(旧名 女王山)の西の高台、女山神護石周辺には卑弥呼の宮趾があったのではないか。そこからは二本の中広銅矛や秀麗な首飾りが出土しています。また女山山頂から西を眺めると現在のみやま市から筑後平野一帯が見渡せるのですが、そこが女王の都する邪馬台国の範囲と推定できます。すると「女王の都するところ、7余戸ばかりなり」なる魏志倭人伝の記述も納得がいくのです。【略】
町の観光パンフには高さ5m、周囲約140mの円墳・権現塚卑弥呼の墓と紹介されています。更に、塚原巨石群には、戦前「卑弥呼神社」があったとのこと。何れにしても、これらの話はここが女王の住む都であった傍証として無視出来ないと考えています。(『国民のための日本建国史』)

 

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長浜氏のこの邪馬台国論はそれなりに的を得てはいるが、魏志倭人伝が「春秋の筆法」で書かれていることに言及していないことが、誠に残念なところである。

 

従って、対海国と一大国の方四百里、方三百里の二辺を加えなかったことと、伊都国から奴国と不弥国に行くのに放射状に行くことをしなかったことから、奴国が倭国の極南界にあるとしなかった所から齟齬が生じてしまったことになる。

 

何はともあれ、 水行十日、陸行一月を邪馬台国への工程に加えていなかったことは、将に慧眼である。

 

邪馬台国倭国連合国家の総称であり、倭国の中の一か国などではないことには、それとなく気が付いておられたようである。

 

高さ5m、周囲約140mの円墳・権現塚卑弥呼の墓と紹介されている古墳があるのであれば、それは卑弥呼の宗女壱与(又は臺=台与)のお墓としてもおかしくはないのではないのかな。

 

まあこの権現塚と奴国との位置関係などは、それなりに検討されなければならないものではあるので、これは小生の当てずっぽうな考えである。

(続く)