邪馬台国とはなんぞや?(52)

高知県四万十川上流の窪川町の高岡神社には五本の広鋒銅矛があり、それを担いで村々を回る祭があるとのこと。これも葦の玉葉が生い茂りその根元には鈴なりの褐鉄鉱のスズが沢山実ることを願って行われた祭であったのであろう、と先の書には紹介されている。

 

 

また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴、これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴生りに生み出されることを祈ったのだろう。そして、祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅を用いるようになって行った。このような考えに逢着したのである。

太古、「豊葦原」から産み出されるスズから鉄を造り、その鉄を使った農具で開墾し、「瑞穂の国」を造る。この両者は、古代より豊かな国の礎、両輪と認識されていた故に、我が国の美称となったのである。

 

と、先の書は続けている(P179)。

 

 

弥生時代の民は、鉄を求めることが切実であって、そのためスズの生成を待ち望み、生成を促進させるために呪儀を行った。・・・・・そこでこの模造品を作ってスズの出来そうな湖沼を見渡す山の中腹の傾斜地で、これを振り鳴らしては仲間のスズの霊を呼び集め、あるいは地周に埋葬して同類の繁殖を祈った。それが鈴であり鐸であった
・・・・・
鉄を求めてスズの生成を待ち望んだ弥生時代の民は、鈴や鐸を振り鳴らして仲間の例を呼び集めるだけではあき足らず、同類を模造して地中に埋祭したのである。銅鐸の出土地の顕著な特徴は、湖沼や湿原に面した傾斜地であることもその間の事情を物語るものであろう。

 

 

と、真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」(学生社2008)から引用して、「なぜ銅鐸は埋納されたのか」に対して回答している。

 

初期の銅鐸は、褐鉄鉱の生成されるスズの代用品であり、それを鳴らしてスズの霊を呼び集め、更には「褐鉄鉱を司る「地中の神様への供物」として、葦原が見渡せる場所を選び、葦の葉を象徴した広鋒(ひろさき)銅矛も、時に同時埋納されたとかんがえられるのである」、と先の書には記されている。

 

更には鉄の需要が増し、褐鉄鉱は使い尽くされてゆき、銅鐸埋納などの祭祀(さいし、神をまつること)が行われたのではないか、とも思われている。

 

そしてタタラ製法には砂鉄が主力となり、日本は程なく鉄の大量生産の時代へ入ってゆく。

 

というのも、弥生前期末(BC100年頃)の丹後半島の扇谷遺跡には、鉄滓(てつさい、鉄のかす)やガラスの管玉などが出土しているのであるから、神武天皇の時代(BC70年即位)には既に相当の鉄が作られていたことであろう。

 

事実褐鉄鉱は千℃未満の低い温度で鉄の還元が出来たので、初期のタタラで容易に製鉄が出来たのである。そして天孫が降臨したと言う日向の地は、その褐鉄鉱や砂鉄が豊富で早くからタタラ製鉄が行われていた地でもあった。宮崎県はご存知の通り火山国で、地理的条件には恵まれていたのである。

 

天の岩戸神話にもあるように、「天安河(あめのやすのかは)の河上の天(あめ)の堅石(かたしは)を取り、天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、」と、砂鉄製鉄の技術も体得していた筈だ、と先の書にも記載されている(182頁)。

 

 

だから神武天皇が鉄を求めて東に向かった、というのも本当のことであろう。

 

ここで日本の歴史年代をおさらいしてみよう。

(続く)