さて、狭野の命と呼ばれていた神武天皇は、BC74年、23才の時、東征を決意したとされるが、小生には何故「東征を決意」したのか、その理由がよくわからない。日本を統べると言う事がそれほど大事なことと考えていたのであれば、相当偉大な人物であったのであろう。
宮崎県での砂鉄の確保が覚束なくなった、と言う事なのか。それとも天変地異などの影響なのか。
神武天皇の即位はBC70年と言う事は、弥生時代の前期の中頃の事であろう。
と言う事は、天照大御神はその五代前の人となるので、神武天皇から200~300年前とすれば、BC300~BC400年頃のこととなろう。弥生前期の始めの頃ではないのかな。古事記には、須佐之男命が水田の溝や畔を壊したことが述べられているので、既に大々的に(?)水田耕作が行われていた時代である。
弥生の前期の頃の話とすれば、天照大御神の時代は、きっと吉野ケ里の最盛期と重なるのではないのかな。感覚的には、天地創造の時代との関連もあるので、もっと古い時代だったかも知れないのであるが。
と言う事は、当然天照大御神は、邪馬台国の卑弥呼なんぞとは同格の人物ではない、と言う事だ。
さて媛蹈鞴五十鈴媛命の母方は、摂津の三島の溝橛(みぞくい)の娘の勢夜陀多良比売であり、父方はヤマトの三輪山をご神体とする大神神社の祭神である大物主命であり、両親ともども製鉄に関わっている家系であった(2018.10.17のNO.47を参照の事)。
三輪山からは砂鉄が穫れたので、山を神とした崇めたのであろう。そして大物主即ち大己貴(オオナムチ)神は、その製鉄集団の頭であった。
三輪山の西南麓には金屋遺跡があり、弥生時代の遺物と共に、同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土している、と書かれている。鉄滓が出ると言う事は、製鉄が行われていたと言う事である。
三輪山の西北には大兵主神社(穴師座兵主神社あなしざひょうずじんじゃ)もある。兵主とは鉄の加工を司る集団である。
穴師とは砂鉄の選鉱と製鉄を司る集団で、兵主がその鉄から武器、農具を造っていたのである。
しかも三輪山の東南の地には出雲と言う地名もあり、山陰の出雲との関係も取りざたされている。
須佐之男命の八岐大蛇退治は、山陰の出雲が舞台であった。ここからも良質な砂鉄が穫れたのであろう。ヤマトの出雲の大物主系の製鉄集団が、砂鉄を求めて山陰の出雲へ乗り出した、と言う事であろう。大物主神は須佐之男命の子孫にあたる人物となっていることからも、そのように想像される。
出雲大社の祭神は大国主命であり、ヤマトの大神神社の祭神は大物主、正式には倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)と言い、『出雲国造神賀詞(かむよごと)』にもその名が載っていると言う。
小生はなぜ、三輪山が姿かたちが良いからと言って、神と崇められていたのか理解できなかったのだが、これで合点がいった。この山の山麓扇状地には、多数の雲母と含鉄石英砂が混在しており、鉄の精錬が可能であった、と先の書の158頁には書かれている。
しかもタタラ製鉄には大量の木炭も必要なので、三輪山の豊かに森林も好都合だったのである。しかも大量にたたら製鉄を行えば、一山が丸裸になるほどの薪が必要となり、そのため植林が積極的に行われた、と言う。
しかし丸裸になった山が回復するのには数十年を費やしたことであろうことから、相当息の長い事業であったことであろう。
そして日本書記の巻第三には、神武天皇のお言葉として次のようなことが書かれている。
「昔、伊弉諾尊がこの国を、「日本は心安らぐ国、美しく良い武器がたくさんある国、勝れていてよく整った国」と仰せられた。また大己貴大神は、「美しい垣のような山々に取り囲まれている国」と仰せられた。饒速日命は、天の磐船に乗って、大空を飛び回り、この国を見てお降りになられたので、「大空から見て、よい国だと選びさだめた日本の国」と名付けられた。」
と書かれているが、この大己貴大神の仰せになった「美しい垣のような山々に取り囲まれている国」は、木炭を造るのに適していると言う意味も含んでいるのではないのかな、と勘ぐることも出来そうだ。
ヤマトはこのように「鉄」の適地だったので、三輪山が神と崇められていたのである。その御神霊が大物主神であり、媛蹈鞴五十鈴媛命(比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))
は、その神の子であった。その神の子を、神武天皇は后として迎えることが出来たのである。
しかも母方は摂津の製鉄集団の娘でもあったので、神武天皇は大和と摂津の両製鉄集団との絆を深めることが出来たのである。
(続く)