邪馬台国とはなんぞや?(59)

第十二代景行天皇の時代には、「熊襲が背いて貢物を奉らなかった。天皇は筑紫に向かわれた」と日本書記に記されている、と先の書の260頁書かれているが、それまでは大和朝廷へは貢物を奉っていたと言う事であろう。それまでとは、第十一代垂仁天皇の御代である。

 

邪馬台国と敵対していた熊襲は、邪馬台国が健在の間は大和朝廷朝貢していた、と言う事である。その理由は熊襲の南に存在する日向は大和朝廷の故郷であり、日向と邪馬台国との間に存在する熊襲としては、日向即ち大和朝廷とは仲良くしておく必要があった筈である。

 

ところが邪馬台国大和朝廷に平定されたとすれば、熊襲邪馬台国を恐れる必要はない、だから貢物を奉らなくなった、と言う事である。と推論しているが、こちらの方が熊襲にとっては十分に厄介なことでは無かったのかな。北と南に大和朝廷の勢力が存在しているからである。

 

だが熊襲にとっては北の邪馬台国が瓦解したことで、一件落着として大和朝廷への貢物を止めてしまったものと思われる。

 

そこで大和朝廷は、熊襲征伐に乗り出すことになる。第十二代景行天皇の御代のことである。

 

熊襲には「八十梟師(たける」と言う猛者が居たからだが、景行天皇の御代に熊襲退治が行われると言う事は、その前の垂仁天皇の時代に邪馬台国は瓦解したと言う事であり、先の小生が述べた「景行天皇の時代に邪馬台国大和朝廷に併合されていった」のではなく、その前の第十一代垂仁天皇の時代に邪馬台国大和朝廷に併合されたことになろう。

 

なお熊襲退治向かわれた景行天皇は、しばらくの間日向に行宮(あんぐう、高屋宮)を設けてお住まいになっている。日向は天孫降臨の地であり大和朝廷とは縁の深い所であった。だから最古級のものから大型のものから千個以上の前方後円墳が存在している。日向と大和との間には深い絆が存在しているのである。

 

と言う事が先の書長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社))の257頁以降に記されていた。

 

従って邪馬台国の併合は、第十二代景行天皇の時代ではなくて、その前の第十一代垂仁天皇の時代であった。・・・と謹んで訂正申し上げる。

 

 

それから先の九州の地図で、吉野ケ里遺跡を狗奴国としているが、これも間違いで狗奴国はやはり熊襲で、卑弥弓呼素(くこちひこ)こと「菊池彦(きくちひこ)」ではないのかな。

 

位置関係を見ると、現在の大牟田市熊本市の中間に菊池川が流れ、その上流に菊池市がある。このあたりの菊池平野に狗奴国は存在していたのではないのかな。「くこちひこ」こと「菊池彦」が狗奴国の王様だったわけだから。

 

 

とすると吉野ケ里の存在は、女王国の一員でないので、他の有力な一国であったのか。とすると吉野ケ里は、邪馬台国と狗奴国に挟まれて相当神経をすり減らしていたことと思われる。更には熊襲の「八十梟師(たける」には攻め込まれなかったのか、という疑問も残る。

 

位置関係からすると女王国に近い存在だが、熊襲から攻められずに独立国として存在していたと言う事か。

 

しかし熊襲はその後大和朝廷に背いたために、日本武尊(やまとたけるのみこと)熊襲征伐を受けることになる。

(続く)