邪馬台国とはなんぞや?(60)

さてここで今一度、日本では、鉄がいつから使われ出したのか、おさらいをしてみよう。

 

ご承知の通り、日本は酸性土壌のために大方の鉄製品は腐ってしまい、なかなか出土しない。

 

その中でも鉄が発掘された遺跡の、次のような表を作成してみた。いい加減なところもあるので、訂正いただければ幸いである。

 

熊本県玉名市の斎藤山遺跡の鉄斧は、中国製の鋳造品を何らかの熱処理を施したものと言われているが、それ以外は(多分)日本で作られたものであろう。いわゆるタタラ製法で作られた鍛造品(?)となろう。

 

縄文晩期には陸稲が栽培され、弥生早期には水稲が栽培されていたと言われているので、鉄器は弥生時代の始まりと共に使われ始めたものと考えられる。

 

と言うよりも曲り田遺跡は、菜畑・板付遺跡よりも古い稲作栽培地だったかもしれないとも言われる証拠となる大陸系(?)磨製石器も出土している。

 

 

 

西暦    項目

時 代

区分

土 器

鉄器出土の遺跡

BC1000

縄文時代

晩期

黒川式

 

BC1000~BC800




早期

夜臼Ⅰ、夜臼Ⅱa

斉藤山遺跡熊本県玉名市・鉄斧)

BC800~BC400

早期

曲り田遺跡(福岡県糸島市、鉄斧)

BC400~AD100

前期

夜臼Ⅱa、板付Ⅰ
板付Ⅱa,b,c

今川遺跡(福岡県津福市、鉄鏃)
山の神遺跡山口県豊浦町、鉄鋤)
扇谷遺跡京丹後市、最古の環濠ハイテク集落、鉄製品・ガラス塊)

AD100~AD300

中期

城の越、須玖Ⅰ、Ⅱ

五斗長垣内(ゴツサカイト)遺跡(淡路島、大鉄工団地、舟木よりやや早)
舟木遺跡(淡路島、大大鉄工団地)、奈具岡遺跡京都府京丹後市、玉造りコンビナート・水晶加工用鉄器)

AD300

後期

 

稲部遺跡彦根市、大鉄工団地)

 

 

 

斉藤山遺跡では、縄文末期の夜臼式土器と弥生初頭の板付Ⅰ式土器が一緒に発掘されると言うので、丁度弥生時代の早期初めの頃のことであろう。菜畑遺跡・板付遺跡は丁度この頃の遺跡と言われている。

 

丁度稲作と同時期に鉄器の使用が始まり、程なくタタラ製法による鉄器の生産も行われたことであろう。稲作と鉄器はセットとして、考えてもよいのではないのかな。

 

神武天皇BC71年、大和南部を平定し、姫蹈鞴五十鈴媛を正妃とされたBC70年頃は、当たり前にタタラ製法で鉄がつくられていたとは言え、やはり鉄を抑えることは最重要課題であった。

 

タタラ製鉄の親玉である大物主の娘である姫蹈鞴五十鈴媛を正妃とされ、大物主と更には摂津の製鉄集団とも絆を深めることが出来たことは、神武天皇に取ってはこの上ない好事であった。

 

大物主は大己貴神(おおなむちのかみ)とも呼ばれ、 大穴牟遅神とも書かれている。

 

これは「大いなる土地・の高貴な人・牟遅」という意味だそうで、葦原の中つ国を平定した高貴な神様と言う事を意味するらしい。

(続く)