邪馬台国とはなんぞや?(62)

先の2018.10.17NO.47でお示しした系図を次に示す。

 

色々な系図が言われているが、日本書記によれば、綏靖天皇は、大物主系の事代主の娘で媛蹈鞴五十鈴媛の妹の五十鈴依媛を正妃に迎えたことになる。

 

このことにより綏靖天皇は、大神神社の神の子と摂津の製鉄集団の血を一手に受け継いだことになる。

 

そして大神神社の血統がすべて皇室に流れ込んだことを意味する。大神神社の血統が二つにならなかったことで、鉄の民と大神神社の神の系統が、全て皇室に統一されたことになる。このことは大和・日本を統一してゆくことには、誠に好都合な事であった。

 

 

古事記では、

 

大和奈良の磯城郡県主の祖、河俣毘売が、綏靖天皇の正妃としているので、五十鈴依媛はそことも関係があったのではないのかな、とも先の書234頁には記載している。そんなことであろう。

 

 

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そして五十鈴依姫がお産みになった師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)が、安寧天皇である。磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)が、日本書紀の記述である。

 

そして上図の日本書紀によれば、安寧天皇は事代主の子の鴨王の娘を后に迎えている。先の書の238頁では、事代主の孫(鴨王の女むすめ)を皇后に迎え、更に大己貴神の血統が皇室に流れ込んだことになる、と記している。

 

そして次の懿徳天皇は、磯城の県主の娘(ふとまわわかひめ)をめとり、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと、孝昭天皇)と多芸志比古命(たぎしひこのみこと)の二柱を得る。

 

多芸志比古命は大阪府泉北・泉南但馬国の竹別け、葦井の稲置(いなき)の祖先となっている。このようにして、ご皇室は、地元の大豪族との絆を更に深めていった。

 

このように闕史八代と言われている天皇は、各地の豪族の娘をめとり、皇子、皇女たちも、各地の豪族たちと姻戚関係を結び、それぞれの各氏族達の祖となっていった。

 

 

闕史八代とは、第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までの八代を言うが、記紀にはこの時代の出来事が具体的に書かれていないことを理由に、闕史八代(欠史)とリベラルな学者・文化人は呼んでいるが、これは大いなる間違いである。

 

ヤマトの橿原に即位した神武天皇はじめ闕史八代と言われている天皇とご皇室は、武力によるものでなく、血縁関係を深めることで大和の各豪族をはじめ、各地の豪族たちと宥和し服属させていったことを、示しているものである。

 

そのためこの間は記紀に書くべき出来事・戦争などがなかったと言う事で、すこぶる平和であったから、それほど書くべき事柄がなかったということである。

 

記紀と言う原本を忠実に読み理解すれば、このことは簡単にわかることである、と長浜浩明氏は彼らに警告している。

(続く)