日本書記の神功皇后の条に書かれていることを、簡単に箇条書きにしてみよう。
(先の書265頁、および、神功皇后の摂政(2)百済・新羅外交、http://www.kunakoku.info/sub-07/sub-07-02.html#text-top、を引用。)
(1)摂政五年、
新羅王から朝貢。新羅王は大和朝廷に人質となってなっている弟を帰国させる様、ウソの理由で神功皇后に嘆願したため、それを許す。対馬まで来た時に、新羅の使者に騙されて、葛城襲津彦は人質を逃がしてしまう。葛城襲津彦は使者を捕らえて殺し、新羅に渡り城を落とし漢人を連れて帰る。「三国史記・新羅本記」にも書かれているとと言う。
(2)摂政四十六年、
百済の使いが、日本と親交のある加羅を訪ねて日本への朝貢を申し出る。以後百済の朝貢が始まる。肖古王の時代か。
(3)摂政四十七年、
百済王の遣使が新羅の調使と共に来朝する。新羅の貢物は豪華で、百済の貢物は卑賤であった。百済の使いが新羅に襲われて、豪華な貢物を奪われてしまった。百済の使者は脅かされて、新羅の卑賤な貢物を自国の貢物とさせられた。神功皇后は、新羅懲罰の派兵を行った。
(4)摂政四十九年、
神功皇后は、荒田別(わけ)と曽我別を将軍とする軍勢を新羅に派遣、百済兵と共に新羅を討つ。
加羅など七国を回復し、済州島を百済に与えた。百済王は感謝して、毎年春秋に朝貢することを約束する。
(5)摂政五十年、
新羅討伐の荒田別(わけ)と曽我別らが帰国する。百済王の使いが来朝する。皇后は加耶の多沙城(たさのさし)を与える。
(6)摂政五十一年、
百済が朝貢してくる。神功皇后と皇太子及び健(武)内宿禰は喜び、帰国する百済の使いとともに千熊長彦を百済に派遣し、日本と百済は堅い同盟で結ばれることにる。
(7)摂政五十二年、369年
帰国する千熊長彦と共に百済の使者が、七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡をはじめ、数々の宝物を献上した。その七枝刀は奈良県天理市の石上神宮につたわる。 七枝刀には「泰和四年六月十一日」の金象嵌が刻まれていた。369年である。
この年にも、大和朝廷は軍を派遣し新羅を破り、加羅(任那)に日本府を置いている。
(8)摂政五十五年、375年
(9)摂政六十二年、
新羅が朝貢しなかった。葛城襲津彦(武内宿禰の子)を派遣するが、新羅のハニートラップに嵌まり、加羅国を攻撃してしまう。応神天皇は兵を派遣し、襲津彦を攻め加羅を取り戻す。襲津彦は自殺する。
(10)献女外交(貢女)、
朝鮮・新羅は統一新羅となっても、中国王朝(唐、宋、元、明、清)相手に献女外交を続ける。
なお、ここらへんの事情(大和朝廷の朝鮮進出)は、高句麗の好太王が414年に建てた「広開土王碑」に刻まれている。
広開土王碑の日本国の進出を記述した辛卯年条(391年)の解釈を次に記す。
「そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となしてしまった。」(ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91)
また、この頃(369年から562年、Wikipediaによる)朝鮮半島南部先端に任那が存在していた。百済も含め、倭国の支配地域とされている。そしてこの朝鮮半島南西部地域には13基の前方後円墳が発見されており、更には糸魚川周辺からしか産出されないヒスイの勾玉が同時に多数産出されていることからも倭(大和)国の勢力が確実に及んでいたことも事実であろう。
391年とは、応神天皇の御代である。応神七年の条には、「高麗人、百済人、任那人、新羅人等が来朝し、彼らを使って池を作らせた」とある。この頃から、百済、任那、新羅は日本の臣民、即ち、分国の民となっていたことを、高句麗が忌々し気に刻んでいたのだった、とは先の書282頁の記載である。
それにしても、古代より朝鮮民族と言うのは、嘘つきで信義にもとる民族であることがよくわかる。丁度、今の文在寅の嘘つきと卑怯なところは、全く変わっていない、と言う事だ。まともにつき合うに足る人種ではない。野蛮人よりも性質が悪い、朝鮮人は。
(続く)