日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(38)

洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館で「ディープスカル」と対面した。
ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。
館長は、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。
茶褐色で薄く、何かはかなげだ。
40000年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。
「思ったよりきゃしゃですね。骨と骨の結合部分にまだ成人になりきっていない特徴もある」。
海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。
「ディープスカル」の発見現場は、半世紀前のまま残されている。
周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたと見られる穴の跡もみつかった。
森で生き抜く知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が、目に浮かぶ。


「ディープスカル」の主は、その形態などから「オーストラリアやタスマニアの先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。
海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。
海部は研究者になった16年前から、ニア洞窟に来るのが夢だったという。
「日本人のルーツを辿る旅で、ニア洞窟は避けて通れませんから」。

 

約20万年前にアフリカで生まれた現生人類は、中東からインドを経て東南アジアにやって来た。
そこからユーラシア大陸を北へ、様々なルートで日本列島を含む北アジア各地に広がっていったと考えられている。
「ディープスカル」の主は、アジアに入ってきた初期の人たち、つまり日本人の遠い祖先だった可能性がある。

午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。
雨に洗われる新緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。
雨は一滴も入ってこない。
風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。
「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。


ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。
行く先々で何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。

 

海部は言う。
その好奇心と、何とかなるという自信、これがホモサピエンスの証じゃないかな」。

もし「祖先」たちがニア洞窟に留まっていたら、日本を含む東南アジアの歴史は変わっていたかもしれない。

彼らが前に踏み出してくれたおかげで、日本人はここにいる。

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0cff0f11f15c185eb4a9c0c060d4922d

 

ここでひとつ注記しておかなければならないことがある。

 

それはインドシナ半島からスンダランドに至る地域では、4万8千年から4万7千年前までにはホモサピエンスが到達していたのであるが、石器に関しては粗雑な物しか見つからない、というのだ。

 

岩宿遺跡でも細石器は沢山出土しているが、この東南アジアの地域における石器は、「礫器」と「不定形剥片」と呼ばれるものが主体であり、石ころをたたき割り鋭い刃のような部分を作って、こぶし状部分を握って道具として使ったものであり、またその時に出来た割れ落ちた剥片の鋭利な部分を道具として使ったものばかりであったようだ。

 

インドでは細石刃は出土しているが、東南アジアではこのようにある意味雑な石器しか出土していないことは、謎である、としている(P70~)。熱帯雨林であったため、吹き矢だとか網だとか言った他の道具を多用したのかも知れない。

 

このような、ある意味雑な石器文化は、中国南部の白蓮洞、黄地、台湾の八仙洞などでみられる、という(P78)。

 

しかしながら、北ルートでのホモ・サピエンスの石器文化は、これよりももっと洗練されたものである、と記述されている(P79)。

 

従って日本へ渡ってきたホモ・サピエンスたちは、北ルート主体か、南北混合チームのホモ・サピエンスたちではなかったのかな。但し海の航海術は「南ルート」のホモサピエンス達の方が長けていたのではないのかな。

(続く)

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(37)

ハリソン夫妻の掘ったニアのウエスト・マウスからは、4万8千年前~3万5千年前に相当する最下層の地層や他の地層からも人類が食したと思われる様々な動物の骨が出土している。淡水産の貝や魚類、更にはまたしてもサルの骨も出土している、と書かれている(P76)。また複数の穴も発見されており、それらはナッツ類の渋みやえぐ味を取り除くあく抜きのためのものであった可能性が高い、とも記されている。

 

このように南ルートをたどったホモ・サピエンスは、陸域である熱帯雨林地域で創造的な活動をしていたことになる。このように創造的な活動が出来たからこそ、後に彼らは日本にまで辿り着くことが出来たのであろう。

 

42000年の旅路・・ボルネオ島のニア洞窟

2014-03-29 | その他先住民族

f:id:altairposeidon:20200915173054j:plain

朝日新聞「日曜版」「日本人の起源」2011・05・01


アジアに最初に入ってきた人たち、日本人の遠い祖先が住んでいた巨大な洞窟を訪ねた記者の記事です。
                 ・・・・・
その洞窟は、とにかく巨大だった。
体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。
その先は真っ暗で何も見えない。
高いところでアナツバメやコウモリが舞っている。
不思議と怖さはない。

むしろ、大きなゆりかごのなかにいる気分だ。
40000年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走りだしたくなる。
マレーシア・ボルネオ島のニア洞窟。
私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。
2人の人類学者・国立科学博物館海部陽介沖縄県立博物館藤田祐樹に同行してもらった。

東京から首都クアラルンプール、そしてボルネオへ。
2日かけて、ブルネイとの国境の町ミリに入った。
そこから車で2時間ほど走り、ようやく「ニア国立公園」の入り口に辿りつく。
ニア川を渡し舟で渡り、鳥や虫の声を聞きながらジャングルを歩くこと1時間。
石灰岩の切り立った崖にぶつかり、木で出来た階段を5分ほど登ると、「さあ、我らが故郷にようやく到着だ」と、洞窟の前で案内役のサラワク博物館長が歌うように言った。

f:id:altairposeidon:20200915173157j:plain

ここで1958年人間の頭がい骨が見つかった。

深さ2・5メートルの地中に眠っていたため、「ディープスカル」と名付けられた。

2000年、サラワク博物館や英ケンブリッジ大の合同調査団が4年かけて発掘。

現場の地層や「ディープスカル」を再検証し、約42000年前20才前後の女性と特定した。

東南アジア最古の現生人類だったのだ

(続く)

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(36)

さて人骨が伴わないホモ・サピエンスの遺跡も沢山見つかっている。それと言うのも、ホモ・サピエンスのみが使った道具類が発掘されておれば、その遺跡はホモ・サピエンスの遺跡と見て間違いがないであろう。

 

海部陽介はそれらを、装飾品細石器骨角器の3つである、としている(P64)。

 

イスラエルの初期のホモ・サピエンスの遺跡の13万~7万年前の地層からは貝殻に穴をあけてビーズ状にしたものが出土している。

 

ダチョウの卵の殻を加工して作るビーズは、今でもアフリカでは盛んにつくられているが、4万数千年も前から行われていたようだ。南アフリカのブロンボス洞窟やディープクルーフ岩陰からは11万年前以降の地層から、それらが発掘されている、という(P64)。

 

細石器とは、岩宿遺跡で説明した黒曜石の槍先形をした石器のようなもので、それ自体を単独で使用したものではなくて、木や骨、角などを加工してそれにはめ込んだりして使用したものであろう。異なる素材を組み合わせて道具を作ると言う事は、新しい発想のものである。

ネアンデルタール人などの旧人にはない行動様式であった。アフリカのピナクル・ポイントと言う遺跡では、7万1千年頃の細石器が報告されている、という。

 

骨角器は、骨や角は石と違い加工が容易であるので、細くけずったり曲げたり穴をあけることによって作られた道具である。というような工夫をホモサピエンスは、実行して必要とした道具を作ったのである。釣り針や銛、更には縫い針まで発明していたのである。

 

人骨が見つからなくてもこのような道具が発掘されていれば、その遺跡はホモ・サピエンスの遺跡なのである。

 

先に紹介したスリランカのバタドンバレナ岩陰遺跡では、人骨が見つかったと同じ地層から、貝のビーズ、細石器、骨角器が発掘されている。ここからは彼らが食したと思われる動物の骨が沢山見つかっているが、それらはほとんどが猿の骨だった、と書かれている(P67)。

 

と言うことは、この地は熱帯雨林で、高い樹上で生活する猿を捕まえる技術を、彼らホモ・サピエンスが持っていたことの証である。その技術はどんなものか興味のあるところであるが、熱帯雨林ではゾウやシカなどの大型動物は生息してはいない。だから小型の哺乳類、しかも夜行性の、を工夫して捕獲していたことになる。罠、弓矢、吹き矢などを使っていたのかも知れないが、これらの道具は木材などの植物素材で作られているので、遺跡物としては残ることはない。確認できないのが誠に残念である、と記している。

 

だから海部陽介は、「そのようにチャレンジングな環境であるからこそ、旧石器時代の祖先たちが、どれだけ熱帯雨林に適応できていたのかは、たいへん興味深い。」と記している(P64)。

 

インドからはその土質の関係から人骨化石は発掘されてはいないが、このようなホモ・サピエンスが使ったと思われる装飾品と細石器と骨角器は出土している、と記している。

 

3万9千年前チャンドラサール遺跡3万年前頃パトネ遺跡では、線刻模様を施したダチョウの卵殻の破片が見つかっている。2万年前の地層となるが、ジュワラプーラム遺跡からはダチョウの卵殻のビーズも発掘されているという。今は、ダチョウはアフリカにしかいないが、当時はインドを含むアジアの広い地域に生息していた、と記している(P68)。

 

ジュワラプーラム遺跡からは細石刃が出土しているが、これは3万4千年前のものと言う。メタケリ遺跡では4万5千年前のものが出土していると報告されているという。

 

チャンドラサール、メタケリ、パトネはインド中央部、ジュワラプーラムはインド半島の南より1/3ほど北上した当たりの中央よりやや東よりの場所である。

 

パキスタン北部のリワート55という遺跡では、4万5千年前の石刃が出土している。これはホモ・サピエンスのものとされている。

 

このように、南ルート(南アジア)では、3万9千年前、場合によっては4万5千年前までさかのぼって、ホモサピエンスの痕跡が見られると言うことが遺跡によって証明されたことになる。

 

と言うことは、海岸移住説に対しては明確なアンチテーゼとなる。その証拠にボルネオ島ニア大洞窟の調査結果である。

 

この超巨大洞窟で、イギリス人のトム・ハリソンとバーバラ・ハリソン夫妻によって、19582.5mの深さから頭蓋骨が発見された。そのため、「ディープ・スカル」と呼ばれるこの頭蓋骨は、マレーシアの女性考古学者のズライナ・マジッドによる再発掘と2000年にはケンブリッジ大学の考古学者グレイグム・バーカーらによる再調査により、約4万2千年前20歳前後の女性のものと特定された、と次の論考には記載されている。

 

しかし海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP58には、この「ディープ・スカル」は地表面下2.7mの地点から見つかった青年の頭骨化石だと記されている。

 

この青年の頭骨か20歳前後女性の頭骨化は、大きな違いである。どちらが正しいのであろうか。小生は海部陽介氏の記述を信じたい。

(続く)

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(35)

この南ルート上のホモ・サピエンスの人骨が発見された遺跡を見てみよう。

 

次のような遺跡が、その書では、説明されている。

 

ホモ・サピエンスの人骨化石遺跡としては、

 

1) セイロン島のファヒエンレナ岩陰の人骨片 37000年前

 

2) セイロン島のバタドンバレナ岩陰の人骨  34500年前

 

3) ボルネオ島のニア大洞窟の「ディープスカル」 4万年前

 

4) 同上遺跡の更に下の地層から石器が出土 48500年前頃より始まる

 

5) ラオスのタンパリン遺跡の頭骨化石 46000年前

 

6) オーストラリアの47000年前の人類遺跡

 

 

このほかには、

 

タイのモキユー遺跡、マレーシアのペラ遺跡、ベトナムのハンチョー遺跡、ジャワのワジャク遺跡などからも人骨化石が発掘されているが、おおよそ46000年前から1万年前となっているという。

 

それらの遺跡からは原人や旧人の骨は見つかっていないので、古代型人類は、ホモ・サピエンスの到来と共に姿を消していったものと思われる。

 

この南ルートのホモ・サピエンスは、47000年前までにオーストラリアやニューギニアへ到達していた訳だが、彼らは今の先住民のアボリジニに似ていたという。

 

アボリジニは、この南ルートのホモ・サピエンスの子孫とみなして、間違いないであろう。

だから「オーストラロ・メラネシア」と総称されている。

 

だが「タイから西インドネシアにかけての地域に暮らす人々は、オーストラロ・メラネシアンとは、体系も、肌の色も、ずいぶん異なっている。つまり現代人の地理分布をみる限り、オーストラロ・メラネシアンはオーストラリアとニューギニア辺域に孤立しているようにみえるので、太古の南ルートの存在と言うのは想像しづらい。」と記述されている(P61)。

 

ただタイやマレーシア、ベトナムなどの遺跡から発見されている人骨化石は、現代の東南アジアのそれよりも、オーストラロ・メラネシアンに似ていたのである。

 

このことは日本の札幌医科大学松村博文氏の一連の研究により、明らかにされた。このことは1万年前~5000年前の数多く発見される人骨の研究からも、それらは「オーストラロ・メラネシア」に似ていることが指摘されたのである。だから「オーストラロ・メラネシアン」は、かつて東南アジア大陸部の広い範囲に分布していたのであった。

 

しかし中国(河姆渡遺跡?)起源の稲作農耕文化が東南アジアへ広がるにつれて、それと共に人の集団も移動し、先住のオーストラロ・メラネシアン系の人々は次第に押しやられたか吸収されて、現在のような状況へと変わっていったらしい、とその書のP63には記述されている。

 

つまり48000年前の最初の大移動の痕跡は、後の移住によってかき消され、現在の東南アジアにはほとんど残されていない、という事のようだ、と同じく記述されている。

(続く)

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(34)

だからそれらを避けて、ホモ・サピエンスたちは南と北に分かれて、移動・拡散していったわけである。

 

 

・ インド・ネパール・ブータンに亘るヒマラヤ山脈がある

・ その北にはチベット高原

チベット新彊ウイグル自治区の間にはクンルン山脈

・ その北にはタクラマカン砂漠があり

・ そしての北には天山山脈

・ 続くモンゴルにはアルタイ山脈が存在しているのである。

 

 

地図で確認するとこれだけの障害物が存在している。これではこの地域は避けざるをえなかっであろう。

 

だからホモ・サピエンスたちは、アフリカからシナイ半島サウジアラビアを経由して、イラク・イランを通過して、

 

南ルートとしては、アフガニスタンパキスタン、インドなどを経由して東南アジア、そしてオーストラリアへと進出していったものと思われる。当時は、マレー半島スマトラ島・ジャワ島・ボルネオ島は、スンダランドと言う陸地だった。そして一部は北上して東アジアへ向かったとみられる。

 

北ルートは、カスピ海の北側か南側を経てウズベキスタンカザフスタンを通過して、バイカル湖方面へと進出していったものと思われる。当時は樺太・北海道と大陸は陸続きであった。そして黄海は陸地となっており、対馬海峡はもっと狭かったようだ。

 

そして南北ルートの合流地点は、東アジア・華北満州、そして日本であった。

 

そして、それほど遅くない時点には、北極海沿岸地域まで人類が到達していたことになる。この一団のホモ・サピエンスたちは、当時は陸続きだったベーリング海峡を渡って北アメリカまで到達していたのであろう。

 

 

先の「地質時代石器時代の対応表」では、ホモ・サピエンスの誕生を20万年前~30万年前と書いておいたが、大体20万年前が正しいようで、ユーラシアへの拡散も6万年前頃と言うことである。

 

いわゆる中期旧石器時代から後期旧石器時代に掛けてホモ・サピエンスは拡散を開始したようだ。何故ホモ・サピエンスがアフリカからユーラシア大陸へと拡散していったかは、小生には分かっていないが、多分に食糧問題であったのであろう。即ち食料を探して動いていったものであろう。

 

 

後期旧石器時代は今から5万年前から1万年前の時期となるが、ヨーロッパではホモ・サピエンスの「クロマニヨン人」が後期旧石器時代の文化を形づくっていたが、旧人ネアンデルタール人も存在していた。中期旧石器文化の担い手である。クロマニオン人もアフリカで誕生した現生人類であるので、アフリカからヨーロッパへ移住したものであった。だからホモ・サピエンスは、アフリカからヨーロッパやユーラシア大陸へと拡散したものであった。

 

この旧人と新人(ホモ・サピエンス)の間には、決定的な違いが存在していた。一口で言えば、その違いは「際立った創造性」の有無にある、とその書のP44には書かれている。

 

クロマニオン人は骨や角を使って釣り針や銛を造り、やがては縫い針まで発明していった。ネアンデルタール人では、決して考えられないものであった。更には道具だけではなくて、自身を飾るためのビーズやペンダントまで作り、身を飾っていたのである。スペインのアルタミラ洞窟やフランスのラスコー洞窟に絵を描いたのも彼らであった。美術や芸術にも、ホモ・サピエンスはかなりの価値を見出していたのである。

 

死者の埋葬にも、それなりの副葬品が伴うのも、ホモ・サピエンスの特徴であった。

 

 

さてそのホモ・サピエンスの拡散の状況を、簡単に見てゆくことにする。

 

先ずは、南ルートから。

 

ホモ・サピエンスがアフリカを出立したころは、7~6万年前のことである。中期旧石器時代の終わりごろの事だ。と言うことはヴュルム氷期7万年前~1.5万年前)の初めの頃である。最終氷期の寒い時期であった。

 

ホモ・サピエンスが出立したサバンナの中東地区と違い、インドから東南アジアには、植物が茂っていた様だ。それと言うのも、インド洋からインド、セイロン、東南アジアへ向かってアジアモンスーンが吹いていたからだ。そのモンスーンが豊富な水蒸気を陸地へと運んでいた訳だ。

 

だから熱帯雨林が発達していた地帯も存在していた。そのモンスーンは、やがてはヒマラヤの山肌を駆け上がり、雪を降らせてそれが氷河となり、やがては川となって海へと下って行った。

 

このモンスーンの一部は、東南アジアから東アジアへも吹き付け、豊かな水をもたらし水稲の育つ一因となっていった。

 

また当時は氷期であったために、海面は今よりも100m前後は低かったので、陸地は今よりも広かったはずだ。だから、スンダランドと言う陸地まで存在していたのだ。

 

南ルートの現生人類は、この熱帯雨林にも順応していった訳だ。ジャワ島やボルネオ島には、彼らの遺跡が存在している。だから確実にこの熱帯雨林にも順応していた。

 

とすると、そこには原人や旧人が居た筈だ。スンダランドのジャワ原人フローレス原人そしてインド周辺の旧人であるが、彼らはその後程なく姿を消していった。季節変動などで、淘汰されたと言うことであろう。

(続く)

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(33)

何はともあれ、相沢忠洋によるこの岩宿遺跡の発見は、日本の歴史が縄文時代をはるかに越える35千年も前の旧石器時代(岩宿時代)にまで遡ることが証明されたことに大いに意義のあるものであった。

 

とすると、20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスは、6~7万年前にアフリカからユーラシア大陸へと進出してゆき、少なくとも35千年前には日本列島に行き着いていた、と言うことになる。

 

と言うことは、この人類の雄大な世界的な旅を追わないことには、「日本人はどこから来たのか」という命題への答えは出せないことになる。

 

 

と言うことでこれからは、ここら辺の事情(ホモ・サピエンスの拡散)は、主に海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)を中心に進めてゆくことにする。そして以後この書籍を「その書」とか「先の書」などと呼ぶこともあるので、ご承知おき願いたい。

 

 

ホモ・サピエンス以前の旧人たちは狩猟採集生活を送っていた訳であるが、彼らは主に内陸に住んでおり海産物を食料としては採集していなかった、と言われている。

 

これに対してホモ・サピエンスは、積極的に(かどうかは知らないが)貝や魚などの海産物を食べるようになっていた。南アフリカの洞窟遺跡では16万年前の海産物利用の証拠が見つかっていると、その書の16頁には記載されている。このことからホモ・サピエンスたちは、内陸だけでなく海岸地区でも生活できるようになっていった、と言われている。

 

このことから、人類の拡散はアフリカから海岸線を辿って、アラビア半島インド半島、そして東南アジアへと広がっていったのではないか、という海岸移住説が主流となっていった、と先の書には書かれている(P16~17)。しかも海岸移住であれば、内陸に住んでいた先住者(旧人など)との競合も避けられたことになる。

 

しかしこの魅力的な仮説には、一つの大きな疑問が存在していた。

 

それはインド洋沿岸地域に、初期の海岸移住を裏付ける古い遺跡が見つからないことであった。

 

海岸移住を主張する人たちは、その理由を、海面上昇による水没のために見つからないのだ、と主張していた。当時より現在は温暖になったために、海面が何十メートルも上昇しているために、当時の遺跡は海の底に水没し、なくなってしまったためである、としていた。

 

この説に海部氏は、次のような疑問を抱いていた。

 

それは6~7万年前にアフリカからユーラシア大陸へと進出したホモ・サピエンスは、アジアの陸域に遺跡を残すようになるのは、およそ5万年前のことである。すると6~7万年-5万年の約2万年の間は、海岸地区にへばりついていたことになる。

 

本当に2万年もの間海岸地区にへばりついていたのか、これが海部陽介の疑問であった。

 

そのため氏は、世界地図上に信頼のおける遺跡をプロットしていったのである。

 

遺跡と言っても数万年も前のものであるので、その年代を特定するためには相当の吟味が必要となる。氏はそれらをしっかりと吟味して、「信頼できる/有用な」遺跡を年代と共に世界地図上にプロットしていった。「有用な」とは、年代として全面的に信頼できるとまでは言えないが、さりとて信頼できないとは言えず相当信頼できる部分がある遺跡、という意味である、と小生は理解している。

 

それが次の図であるが、これは海部陽介が作図したものを書き写したものである。

 

 

f:id:altairposeidon:20200909220821j:plain

 

これによると、氏は次の4つのブロックがあると判断している。

 

 

(1) インド、南アジア、東南アジア、オーストラリアのブロック(南ブロック

(2) ヒマラヤの北側の西シベリアからバイカル湖に至るブロック(北ブロック

(3) 日本を含む東アジアのブロック(南北ブロックの合流地

(4) 北極海沿岸地域(ヤナRHS遺跡)

 

 

何故南と北に分かれて遺跡が存在するブロックがあるのかと言うと、その間には次のような山脈や砂漠が存在しているから、通過できなかったのだ。

(続く)

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(32)

市をあげて相沢忠洋氏をバックアップする姿勢があっても良いのではないか。

 

 



 


昭和247月発見された槍先形尖頭器
当館蔵

「山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
 「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」
 私は、その石を手におどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
 それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
 もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。」 (相沢忠洋『岩宿の発見』より)

 数万点にも及ぶ発掘資料の中から、あえて1つを選ぶとしたらこの「槍先形尖頭器」だと思います。なぜなら岩宿発見のきっかけとなったものだからです。実際この槍先形尖頭器に会うために記念館を訪れる人も多いようです。黒く透き通る黒曜石(黒耀石)で出来ていて、中心部に白雲のようなすじが入っていて、神秘的な美しさを持っています。 (長さ約7cm、幅約3cm)
昭和26年頃の相澤 (『岩宿の発見』より)

http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/tenji/sentouki/sentouki.html





 

AIZAWA TADAHIRO MEMORIAL HOUSE

最終更新日 2005/09/19

http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html

 

f:id:altairposeidon:20200908164239j:plain


2001年建立の相沢忠洋

https://ja.wikipedia.org/wiki/岩宿遺跡



 

このように相沢忠洋氏の功績により、後期旧石器時代にも、日本には人類が住んでいたことが証明されたのであるが、明治大学による学会への論文等には、相沢忠洋氏の名前や功績は排除されており、なんとなく明治大学にも胡散臭さを感じてしまうものである。

 

相沢忠洋明治大学の大学院生である芹沢長介の下に、その石器を持ち込んだのであるが、すべてが芹沢の師匠である明治大学考古学教室の助教授の杉原荘介の手柄となってしまった、といういわくつきの実話がある。

 

相沢忠洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』  には次のように記されている。

・・・・・・・・・

しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表したさらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。

・・・・・・・・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/相沢忠洋

 

だからかどうかは知らないが、✕流大学などと明治大学を呼ぶ輩も沢山いるのではないのかな。

(続く)