南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな。(1/3)

南京事件というものは、蒋介石が欧米から援助を受けんがために、作り出した虚

構宣伝であることはすでに明らかになっているが(そのため、ザ・レイプ・オブ・

ナンキンの著者であるアイリス・チャンは'04年に自殺している。)、ここに

'06/7月号「正論」の「南京大虐殺いう虚構宣伝の全容と教科書のウソ」

東中野修道氏)を引用して、その概要をお話したい。

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日本の中学校や高等学校の教科書には、19371213日に南京が陥落した

ときに発生したとされる南京事件のことを次のように記述している。

日本書籍、平成17年3月検定済み歴史教科書には、

「年末には日本軍は主と南京を占領したが、そのさい、二十万人とも言われる捕

虜や民間人を殺害し、暴行や略奪も後を絶たなかったため、きびしい国際非難

を浴びた。南京事件)(脚注、殺害された中国人の数については、さまざまな説

がある。)」

しかし当時のアメリカ政府はもとより肝心要の中国国民党政府が南京大虐殺

果たして非難したことがあったであろうか。南京が陥落した時その様な大虐殺

があったとしたら当然国民党政府は速やかに緊急の記者会見などを開き、そ

の事を糾弾・宣伝する筈であったが、そのことに関して一切話題にされた形跡も

記録も見当たらない。当の蒋介石政府の国際問題研究所の極秘文書にも、

害や虐殺を述べ非難する記述はないのである。

長い間南京大虐殺の根拠とされてきたのは、「マンチェスターガーディアン」の

特派員であった上海のティンパーリ記者編の『戦争とは何か』であったが、前

述の極秘文書中国国民党中央宣伝部製作の『中央宣伝部国際宣伝処工作

概要』には『戦争とは何か』中国国民党中央宣伝部の作成した宣伝本である

と明記されていたのである。これは、亜細亜大学教授の東中野修道氏の16年

に渡る研究の成果であった。詳しくは20065月発売の「南京事件国民党極秘

文書から読み解く」草思社)を参照されたい。

この「概要」は、日支事変において日本軍の相手であった中国国民党が、「宣伝

戦で敵を包囲して最後の勝利を勝ち取る」ため、南京陥落直前からその後の三

年半に渡って、いかに宣伝工作したかについてのウソ偽りのない秘密報告であ

った。

この「工作概要」には、「南京防衛戦の時には、吾が軍の勇気を奮い起こした作戦、

後方の救援工作を宣伝し、首都南京が陥落した後は敵の暴行を暴いて・・・・・宣

伝した」とある。

中央宣伝部はあらかじめ「敵の暴行を暴いて宣伝する」と計画し、大虐殺など

のウソの宣伝をしたのである。その計画とは、(1)日本軍が暴行を働くように仕

向け、(2)それを誰かが南京で告発し、(3)世界に発信することである。以下その

「工作概要」を述べる。

Ⅰ.日本軍が暴行を働くように仕向ける。

 南京陥落の直前19371212日の夜20時南京軍の司令官「唐生智」が、多

くの将兵を南京城内に残したまま敵前逃亡する。これは織り込み済みの行動で

あった。南京城内に残された中国兵はパニックに陥る。そして軍服を脱ぎ捨て、

便衣(私服)に着替えて市民に紛れ込んだのである。当然日本軍は市民とゲリ

ラ活動をする市民の姿をした兵士とを分けていった。これは常識的な残敵掃蕩

であったが、この摘発と処刑を宣伝工作の対象にしたのである。(国際法では

私服の兵隊はスパイとして文句なく処刑できる。)

Ⅱ.南京の欧米人と日本軍を対立させる。

 南京には二十数名の欧米人が残留しており、五人の新聞記者とカメラマンが

いた。

南京軍の唐司令官達は彼らと交流を深め、懐柔していった。欧米人たちは十一

月十六日安全地帯の構想を描き、翌日国際委員会を結成し、南京城内に安全

地帯を設け運営を始める。独人・ジーメンス社の南京支社長ジョン・ラーベがそ

の委員長となる。

その「ラーベ日記」にはその国際委員会が中国軍将校を四人もかくまっていた

ことが記されている。更に安全地帯には、逃亡した中国兵を多数潜伏させたの

である。これは国際法違反である。当然日本軍は彼らの保護する中国兵を摘

発し、反抗的な兵士に対しては処刑の処置をとらざるを得ない。摘発や処刑は

民間人にとっては衝撃的な体験である。

ここに国際委員会の欧米人の嫌悪感と反発と怒りを引き出し「南京陥落後の敵

の暴行」を宣伝できる状況を作ったのである。

(続く)