日中戦争は中国共産党が引き起こしたものだ。(1/3)

手長猿温家宝もマントヒヒ胡錦濤も「日中戦争は日本の侵略から始まった」と言っているが、実際は中国共産党「日本国内で共産革命を惹き起こさせようとして、無理やり日本軍を引きずり込んだ」ものだ。以下「正論」'06/8,9月号を引用しながらそのいきさつをまとめてみたい。
我々はchinkoro中国の欺瞞に騙されてはならない。

1.コミンテルンの武装革命

コミンテルンとは、世界各国共産党の指令機関として1919年に設立された世界赤化を目的とする組織であり、ソ連政府と表裏一体のものであった。

ソ連コミンテルンの意向・指導の下、1921年の一全大会で支那共産党即ち中共が成立しコミンテルン加入が決議された。そしてその工作のもと、1924年1月国民党一全大会の「連ソ容共」決議によって第一次国共合作が成立した。

更に1926年12月に「コミンテルン十二月決議」が作成された。それによると支那革命の目的をプロレタリア・農民による社会主義国家建設とし、農民らを武装し地主からの土地没収、内乱の助長などの暴力革命を謳い上げている。即ち、国共合作を利用して共産党の暴力的権力奪取の謀略である。

2.対日戦争を革命戦術に組み込む。

1935年のソ連コミンテルン第七回大会で、反ファシスト人民統一戦線方式が打ち出された。その結果「八・一宣言、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」が発せられた。内容は中共がその革命戦術の中に対日戦争を採りいれて、「内戦停止・一致抗日」を訴え、所謂「救国」運動に変換し革命戦術を拡大させたのである。そしてそれは国民党軍に潜入していたコミンテルンの指名を受けた中国共産党工作員による、1937年7月8日の「盧溝橋事件」へと展開してゆく。

1900年の義和団事件後の講和議定書(辛丑条約)に基づき夜間訓練をしていた日本駐留軍支那駐屯歩兵第一連隊第一大隊第八中隊の後方から銃撃を加えたのも、国民党軍に潜入していた中国共産党工作員であった。事実、事件発生直後の深夜、北平から延安の中共本部への「成功了」の平文の電信が打たれている。その結果、コミンテルンは「あくまでも局地解決を避け、日支の全面衝突にまで導かなければならない」とする指令を中国共産党に発している。

3.盧溝橋から全面衝突へ。

盧溝橋において思惑通りにことが運んだことを受け、コミンテルンは直ぐに次のような指令を中共に発している。

(1) あくまでも局地解決を避け、全面戦争に導け。
(2)
民衆を煽動して、国民政府をして戦争に導け。
(3)
紅軍はゲリラ戦に入れ。
(4)
共産党は国民政府軍の下級幹部・兵を取り込み、国民党を凌駕せよ。

盧溝橋での衝突の後7月11日、日中双方との間で停戦協定が調印された。だが、中国軍はその後も、たびたび停戦協定を破り、日本軍への挑発攻撃を続けた。
日本軍は事態の不拡大方針をとり、平和交渉を求め続けていたものの、不本意ながら
泥沼の戦争に引きずり込まれて行った。
このことは、7月8日付けの日本軍の不拡大方針を指示した電報の原文が靖国神社遊就館に展示してある。
「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコト避クベシ」が原文である。

4.第二次上海事変の勃発。

中国共産党は、これらの事件を拡大させ、局地解決を妨げ、国民党に寄生し協力しつつ、党政を拡大するというコミンテルン秘密指令を実行していった。
1937年8月9日には前哨戦たる国民党軍に潜入していた中国スパイによる日本将兵の虐殺事件が発生した。モスクワの意向を受けていた「冬眠スパイ」が引き起こしたことは、中共側資料に明記されている。
更に上海では事を起こさないと言う蒋介石の方針に反し、中国軍は非武装地帯に陣地を構築し、日本の陸戦隊を挑発し8月13日先制攻撃を開始したのであった。第二次上海事変の勃発である。

かくして9月2日、日中の戦争は一括して「支那事変」と改称された。
日本は事態の不拡大方針をとり、平和交渉を求め続けていたものの、不本意ながら泥沼の戦争に引きずり込まれて行ったのである。

(続く)