竹島は、明らかに、日本領。(2/3)

2.先占理論による竹島日本領。

古くは江戸幕府が1661年、伯耆藩(鳥取県中西部)の大谷、村川両家に竹島領有の権利を与えるなど、竹島は日本海漁業の拠点として知られた存在でした。漁民たちは更に韓国よりの鬱陵島まで手を伸ばすのですが、さすがそれは止めてくれと言う朝鮮の申し出があり、鬱陵島への渡航は禁止されます。しかし竹島は引き続き大谷、村川両家の領有地でした。)

()内は竹島問題の基礎知識 http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050313A/

より引用しています。

更にここでは、国際法の「先占理論」を紹介し、次のように竹島は日本領であると結論付けています。

先占理論とは、(1)先にどこの国のものでもないその土地を見つけ、かつ(2)先にその土地領有の意思を公的に示したこと、の二つを満たした場合、その土地はその国の領土になると言うものだそうです。

(1)の条件は、1661年に幕府が伯耆藩の大谷・村川両家に竹島領有の権利を与えていたわけですから、明らかにクリアです。

(2)の条件は、後で述べていますが、1905年に竹島島根県に編入する閣議決定をし、韓国からも異議申し立ても無かったので、韓国よりも先にクリアしています。

次に、「正論」の'06/7月号の「『竹島問題』の本質がわかっていない日本政府」(下條正男氏)より、日本領たる根拠を紹介しよう。

3.韓国側の言う根拠は、

1770年編纂の『東国文献備考』の文註に輿地誌に云う、欝陵干山うざん皆干山国の地、干山は則ち倭の所謂松島なり。により、竹島を欝陵島の属島としている。(干は芋の草冠を取った部分と同じ、”う”と読んでほしい。)

更に、13世紀に成立した三国史記の512年条に干山国が新羅に併合された、とある。

これらにより、干山を竹島とし竹島(独島)は韓国の領土としているが、

干山は則ち倭の所謂松島なり。」が後世に書き換えられており、

この文献は正しい内容を引用していない。

その理由は、

東国文献備考の底本となっている『彊界誌』には、輿地誌に云う。一説に干山欝陵本一島とあり、東国文献備考の文註の引用と明らかに異なる。

彊界誌は1756年成立、東国文献備考は1770年に編纂されている。

東国文献備考の編纂過程で輿地誌の内容が改竄されて、あたかも欝陵と干山の2つの島のような表現になっているが、ここの解釈は次の通りが正しい。

欝陵とも干山とも言う島はみな干山国の地である。干山と言うのは日本の言う松島のことである。

欝陵と干山と別の島のような表現になっているがもともと同じ島の名称で、

日本ではそれを松島と呼んでいたのである。

彊界誌の引用文の意味は、干山も欝陵ももともと同じ島であると言っているのである。

又三国史記では、干山国に属島があることにも言及していない。

竹島が欝陵島の属島であったとは言っていないのである。

また、15世紀に成立した『世相実録地理志』や『東国輿地勝覧』にも干山国(島)のことが記されているが、これらは『太宗実録』が典拠となっている。

太宗実録には、干山島のことを「十五戸、男女併せて八十六人、畑あり。」と表現している。

竹島には耕地も人の住める場所もなかった。

干山国は今日の竹島とは無関係であったことを示している。

干山国は明らかに欝陵島を指し示しており、今日の竹島を指し示しているものではない。

更に、この二つの文献には干山国と欝陵島に関する記述があり、

その文註に「見える」と記されているが、韓国は欝陵島から竹島が「見える」としたが、300年前の朝鮮政府は、「朝鮮半島から欝陵島が見える」と解釈して、欝陵島を朝鮮の領土と主張しているのであり竹島が見える訳ではない。

4.竹島はどのようにして日本領となったのか。

1880年軍艦松島が欝陵島を調査、松島を欝陵島とし、竹島は竹嶼と報告し「無主の地」となっていた。

1882年、朝鮮高宗の命を受け検察使が欝陵島を調査したが、竹島には気づいていない。

更に、1900年に朝鮮視察官が鬱陵島の実態調査をしたが、竹島には行っていない。

1889年刊行の『大韓地誌』では、韓国の極東は『東経130度35分』としているが、竹島は『東経131度55分』で竹島は韓国の極東から1度以上外れている。

明らかに朝鮮政府は、竹島は韓国領と見ていなかったのである。

1905年、日本政府はアシカ漁師・中井養三郎が竹島に小屋掛けした事実を占有として、竹島島根県に編入した。

1906年、島根県官吏竹島を視察、荒天のため欝陵島に避難しそこで鬱陵島の郡守に竹島が日本領になったと伝えた。

竹島は、それまでは無主の地であり、韓国側とは関係のない島であり、

侵略と非難するのは当たらない。反対に現在では韓国が日本を侵略している。

このように歴史的根拠が無いにも関わらず、韓国側が島嶼(独島)、海面(東海)、海底(韓国の人物名)の地名にまで改名を働きかけている。

日本は、この現実から逃げることなく、全国力を総動員して、真摯に対応すべきである。

1952不法にも公海上に李承晩ラインを設置し、19549月、日本の国土・竹島は韓国により武力占拠されのである。

5.韓国、日本EEZ内で海流調査を強行し、領海侵犯。

 韓国は20067/2 海洋調査院の調査船「海洋2000を出港させた。('06.7.4 中日新聞そして、7/56:41日本のEEZ内に無断進入し、7:45に日本の領海・竹島沖22km内に進入14:03 に日本領海を離脱し、21:08に日本のEEZから離脱した。

もちろん調査船の近くには韓国海洋警察庁の警備艦「5001艦」が護衛についていた。('06.7.5日経夕刊、7.6日経)

その時日本はどうすべきだったのか。答えは明らかである。日本巡視船で韓国の調査船を、有無を言わせず、拿捕することである。必要なら艦砲射撃も止むを得ない。

竹島沖海戦を自衛のために戦うことである。

そのためには、自衛艦攻撃機の準備もしておくべきである。

自国領を侵犯されて黙っていることはない。

華々しく国際問題にすべきであった

しかし実際は海保の巡視船「だいせん」が無線などで調査中止を求めただけだった。

7/5 早朝は、北朝鮮が6発のミサイルを発射したときである。それでもなお調査を続行したと言うことは、明らかに日本を馬鹿にしきっている証拠である。

韓国青瓦台(大統領府)の意向に則った行動である。だからチャンコロなのだ。

実力行使はしなくとも日本は独自に調査船を派遣して、自国領海で自国のEEZなのだから、正々堂々と調査すべきだったのである。

(続く)