2.アメリカから三行半を突きつけられた総理大臣
日本の総理大臣が、アメリカとの交渉において難局に直面し、詰め腹を切らされる形で実質的に「首を切られる」形で退陣させられたケースは数多く存在する。
[近衛文麿の場合]
・昭和15年(1940年)7月22日、第2次近衛内閣が成立するが、欧州でのドイツの宣戦(昭和14年9月)拡大に伴い、日本軍は北部仏印進駐、日・独・伊三国同盟を締結する。(昭和15年9月)
昭和16年7月18日、第3次近衛内閣成立。
昭和16年7月28日、南部仏印へ進駐が実行され、これに伴い支那事変では中国を全面支援していたアメリカは日本への経済制裁を実行し、日本への石油の輸出を全面禁止した。
近衛は、日米首脳会談を決意し強く訴えた。しかし、アメリカ大統領ルーズベルトは直前で前言を翻し、10月2日に、妥協するより力で日本を封じ込めるべきと考え「首脳会談を拒否する」回答を日本に示した。
これにかけていた近衛は打開策を失い、10月18日総辞職した。
決して嫌になって政権を投げ出した訳ではない。
[海部俊樹の場合]
・海部内閣の在位は、H元年(1989年)8月9日~H3年(1991年)11月5日。
1991年9月30日、政治改革法案が自民党内での意見がまとまらず海部の知らないところで廃案となる。これを受け海部は、「重大な決意で望む」と発言。これは解散総選挙を意味するととられ、自民党内で反発された。自派閥の竹下派からも不支持を表明され、結局発言の責任を取り、同年11月5日総辞職した。
海部内閣時代に湾岸戦争が勃発する。
1990年8月2日、戦車350両を中心とするイラク機甲師団10万人がクウェートに侵攻した。その後国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日に国連は、翌1991年1月15日を撤退期限とした「対イラク武力行使容認決議」を決議した。
1991年1月17日、多国籍軍によるイラクへの爆撃が開始された。「砂漠の嵐」作戦だ。そして2月24日、空爆が停止され、地上戦に突入する。「砂漠の剣」作戦だ。
この湾岸戦争は多国籍軍の圧倒的な勝利に終わる。敗戦を認めたサダム・フセインは、 1991年3月3日暫定停戦協定が結び、戦争は終結する。
この湾岸戦争に際しては、
ブッシュ政権は同盟国に戦費の拠出と共同行動を求めたが、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民左派や社会党などによって廃案とされた。
政府は1990年8月30日から翌年の1月24日にかけて、多国籍軍へ合計130億ドルの資金協力を決定した。
しかし米国に相当額が着服された模様で、クウェートの参戦感謝決議の対象国にも入らなかった。
この仕打ちを受けた日本政府は、ペルシャ湾の機雷を除去するために海上自衛隊の掃海艇を派遣した。「ペルシャ湾掃海派遣部隊」は自衛隊法99条に基づき、掃海母艦「はやせ」を旗艦に、掃海艇4隻、補給艦「ときわ」の部隊編成である。
部隊は1991年4月26日に出発し、6月5日から9月11日まで、99日間にわたり米国および多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を実施した。
この湾岸戦争の日本の対応については資金協力だけでなく、米国は自衛隊の派遣を強く求めてきた。当時幹事長であった小沢一郎に強圧をかけた。煮え切らない海部首相にアメリカは小沢に内閣の更迭を迫り、小沢が強引に自衛隊を湾岸に派遣させて、追い詰められた海部総理は打開策を失い総辞職したのである。と言うのが真相と言うことらしい。
9月30日の重大な決議発言と9月11日の掃海作業の終了とが、きしくもマッチしている。
[細川護熙の場合]
・細川護熙の場合も、小沢一郎が絡んでいると言う。細川の場合も、佐川急便がらみの問題で急遽総理大臣を投げ出してしまった、と思われている。果たしてそうだったのであろうか。当時あまりにも唐突で非常に訝しく感じたものだ。
第79代細川護熙内閣の在位期間は、1993年(H5年)8月9日~1994年(H6)4月28日であり、263日の短命政権であった。
1993年から1994年にかけては、「第1次北朝鮮危機」が進展していた頃である。
1994年3月19日の板門店での南北会談では、北朝鮮代表から「戦争が起これば、ソウルは火の海になる。」と韓国及び世界が恫喝されたことは記憶に新しいであろう。
そんな情勢の中で細川護熙は、アメリカと日米包括協議を行なっていた。結局この協議は決裂するのであるが、その時アメリカは北朝鮮への空爆や海上封鎖を考えていた。そして
細川はアメリカから二つのことを突きつけられていた。
一つは、日本から北朝鮮に情報が漏れること。二つ目は、北朝鮮有事の際の日本は何をすべきか、であった。
一つ目は、新党さきがけの代表であり武村正義官房長官から北朝鮮に情報が漏れるかもしれないとの、アメリカの危惧であった。
細川は武村を外すべく、内閣の改造を考えていたが、同年3月2日断念するのであった。
二つ目の北朝鮮有事への対応では、細川はアメリカから「集団的自衛権を行使できるのか」と迫られていた。ましてや7党1会派からなる寄せ集め内閣では、そんな危機に際しても到底迅速な動きは出来ようもない。
日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社民連、民改連の連立内閣なのである。
小沢一郎は新生党の代表幹事として、細川政権を発足させた張本人であるが、このときもアメリカ側に立って集団的自衛権の容認を細川に迫ったのである。
追い詰められた細川総理は進退窮まり、佐川急便のスキャンダルが発覚したのをこれ幸いと、政権を投げ出したのである。
これも単にスキャンダルを理由に政権を投げ出して訳ではない、「今の体制では何も出来ない。自分が身を捨てることで、社会党を切り、地殻変動を起こさなければならない。」との決意だったのである。
以上見てきたように小沢一郎はアメリカと呼応して海部、細川と2人の総理を辞任させた。
安倍総理辞任の場合は、野党第一党の党首と言う今までとは違う立場ではあったが、やはり小沢が絡み、アメリカが絡んでいると言う点では共通している。
(続く)