小沢一郎の土下座外交(3/5)

3.小沢訪中団

小沢一郎は2007年12月6日から8日までの3日間中国を訪問した。

今年は日中国交正常化35周年であり、また来年は日中平和友好条約締結30周年となる。

2007年10月5日、王毅・前駐日中国大使の後を継いで崔天凱・新駐日大使が着任した。

そして、着任早々の10月11日午後、民主党本部で小沢一郎代表と会談している。上記の35周年と30周年を契機に、日中の友好関係を確認したと言う。

そして小沢は、1,000人規模の大訪中団を派遣することを約束した。これは民主党中国共産党による「日中交流協議機構」と言う組織と、小沢が1989年から続けている「長城計画」と言う交流事業の、共同企画で実行される計画のものである。

しかし募集を行ってもなかなか人は集まらず、締め切りを2回、3回と延期してようやく436名を集めて実施された。内訳は、民主党議員45人、一般募集391名。

小沢訪中団の日程はおおよそ次の通り。

'07年12月6日 成田2便、関西2便、中部1便で出発、北京着

  着後・世界遺産、天壇公園観光

  夜 ・「共産党青年団中央中華全国青年連合会」の歓迎宴

'07年12月7日

  午前・日中交流協議機構分科会、一般は班別観光

  午後・人民大会堂にて記念撮影 w/ 胡錦濤

      民主党小沢一郎代表と胡錦濤国家主席との会談

   夜 ・釣魚台迎賓館にて

       民主党自立支援基金(1,000万円マイクロ・クレジット用) 中国共産党中央

       対外連絡本部への贈呈式の後、答礼宴

'07年12月8日

  一般・万里の長城見学→北京空港から西安へ(150人)

  議員・北京にて、「日中交流協議機構」外交安保分科会、経済分科会

     文化分科会に分かれて討論会帰国

  小沢・小沢一郎は、朝 帰国

'07年12月9日 一般・西安観光

'07年12月10日 一般組150人、帰国

小沢一郎土下座外交は、12月7日午後の直接会談での出来事だった。

記念撮影の後両首脳は会談のため別室に向かった。

週刊新潮12月20日号によると、その部屋は縦横20~30mの広い部屋。

ハの字に並べられた椅子の真ん中に胡錦濤小沢一郎が座り、両側にはそれぞれ関係者が座ると言う形。

小沢一郎の卑屈な態度は、まさにこの時に生まれたと言う。その時の様子を同じく同誌より引用すると、「小沢氏は緊張して上ずった声で、胡氏にお礼の言葉を述べたのです。小さい声で、普段の小沢氏を知る人間としては、実に印象的なシーンでしたね。身分の高い人への謁見が実現して、感謝と感激に震えている、と言う感じでした。」と言うもの。

ご承知の通り、小沢氏は'07年8月8日シーファー駐日米国大使民主党本部に呼び出し45分も待たせた挙句、TVカメラの前で、特措法の延長に理解を求めた大使に対して、米国の戦争には協力出来ないと特措法の延長に反対している。

このように傲慢な小沢だが、なぜか胡錦濤の前では借りてきた猫の様。

また同誌を引用させてもらう。

[ちょこんと椅子に座った小沢氏は媚びたような笑いを浮かべ、「ただいま主席閣下自らですね、今回の参加者の団員のものと写真を撮っていただきまして・・・・・、そしてまた、みんなと握手までしていただきまして・・・・・、先例のないサービスをしていただいて、本当に感謝しております。」と、小さな、そして震える声で、そう言ったのだ。]

もはや今の小沢には、その昔の面影はない。

古森義久氏のブログ(http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/424518/ )を引用させてもらおう。

1999年2月末、当時自由党党首だった小沢は訪中して中国共産党中央政治局常務委員尉健行氏と会談する。その場では決して媚中ではなく、しっかりと自己の見解を伝えている。たとえば、「歴史認識は反省の上に立ってきちんとすべきだが、それは中国の皆さんも同じことだ」とか「日中友好を阻害するようなことは慎むべきだと言う尉先生の言葉があったが、それはお互いに慎むべきだ」とも言っている。

然るに今の現状を見るにつけ、小沢には日本の、否、民主党の政治すら任せることは出来ない状況だ。いったい何が小沢一郎を変えたのか、とこのブログは結んでいるが、きっと小沢には中国からの各種のアタックがあり、小沢はそれに嵌ってしまったものの考えてもおかしくない。前原誠司の偽メール事件も摩訶不思議な事件であった。それと同じくらい不思議であり、我々は、中国の影を強く感じてもおかしくないと想像している。

(続く)