3.なぜ「30万人」が嘘なのか。
(一つの理由)
当時の南京市の人口は20万人だと言う。南京市と言うのは城壁に囲まれてお
り、この城内地域のことを言うらしいが、当時の王固磐・警察庁長官がこの中には
「20万人」が住んでいる、と明かしている。従って20万人しか居ないのに、なぜ
30万人も殺せるのかはおのずと不可能であることがわかる。
もちろん、その20万人も簡単には殺せない。
しかし最近チンコロ中国は「周辺も含めると70万人がいた」と言い出したらし
い。馬鹿も休み休み言ってほしいものだ。次でも述べているが、南京周辺は国民
党軍による焦土作戦で全くの廃墟となっており、全く人影はなかったのである。
また、30万と言う数字は膨大である。たとえば大津市、前橋市、青森市、高知
市などの都市が人口30万の都市であり、多くの県庁所在地が含まれる。
いわば、これら中核都市の住人がまるごと殺戮されるのに匹敵する。
もしそうとしたらまさに地獄絵である。
ちなみに1945年3月10日に米軍が行った東京大空襲では死者数10万人、
同じく米・英国が行った悪名高いドレスデン空爆でも公式死者数は3万5千人と
言われている。
(二つの理由)
週刊新潮12月20日号の「虐殺はなかった!兵士9人が見た南京陥落」を
引用しながら説明しよう。
2007年12月6日、東京九段会館で「参戦兵士の語る南京事件の真実」と
言うフォーラムが開かれた。
・主催「南京事件の真実を検証する会」、事務局長藤岡信勝拓殖大学教授
・趣旨「実際に参戦した兵士の方々に、当時の体験を語って頂き、南京大虐殺
を宣伝する映画に対抗する。」
・内容「9人の元兵士の話を基に当時の南京の様子を再現する。」
以下、整理して彼らの証言を記載してみよう。
(1) 熊本第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊・上等兵、永田尚武氏(92才)
-文書で証言。
「12月5日から10日、雨花台(南京城の南)までの道のりは楽なものでした。
各隊ともワイワイ言いながら進み、敵前の戦闘もなく、中国住民ともほとんど
会いませんとでした。……住民は逃げていませんでしたので、トラブルはありま
せんでした。雨花台からは激戦で苦労しました。……」
(2) 同連隊第1大隊・伍長、古沢智氏(91)-文書で証言。
「…雨花台街は全くの廃墟で、清野作戦(焦土作戦)の影響で何もありませんでし
た。 12日深夜から13日早朝にかけて、敵は城門を閉めて逃亡した。……城門
内で日本兵の攻撃を食い止める使命を帯びた中国兵は取り残され、哀れにも
我々の銃火に殺されました。」
(3) 金沢第9師団歩兵第18旅団司令部・軍曹、齋藤敏胤氏(91)
光華門突入の激戦について、直接語る。
「(12日の)午後5時ごろ、連隊長が突入を命じましたが、…二重の門内に閉じ
込められ…反撃したが負傷者が続出…大隊長の”名誉の戦死”を経て、13日
朝突入、夕刻ようやく占領に至った。」
(4) 熊本第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊第1大隊・伍長、古沢智氏(91)(前出)
「中華門から入りましたが、門は四重になっていて、土嚢が積まれていたのです
が……。大きな通りを北上して進んでいきました。城内はガランとして、人影は
ありませんでした」
--どうやら、市民は難民区に集まっていたのだ。そこは一般市民を保護する
ための区域で、同時に多くの敗残兵や、平服に身を隠した便衣兵が潜んでいた。
日本軍は敗残兵を掃討する名目で、この難民区の市民を多数殺した、と中国側
は主張するが、
(5) 金沢第9師団歩兵第18旅団司令部・軍曹、齋藤敏胤氏(91)(前出)
「12月20日前後、連隊長が…南京城内を見学され、難民区の前に行きまして、
小姓に”入れろ”といってのですが、”許可のない方は入れません”と言われ、
そのままお帰りになりました。」
「20日ごろ、紫金山に入り…、南京を見ますと、銃声も聞こえない、火災も起きて
いない、本当に平和な町でございました。」
--ただし、当然ながら敗残兵の掃討は行われた。
(6)金沢第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊・伍長、喜多留治氏(89)
「難民区の掃討は14,15,16日の3日間でございますが、7項目★にわたって
厳重な注意厳命がございまして、外国権益の留意、……、将校の指揮する掃討
でなければ認めない…」と言うように非常に秩序だって行われ、更に
「滞在期間中、一発の銃声もなかった。聞きもせず、撃ちもしませんでした。」
と言うものだった。
(続く)