中国・虚妄のプロパガンダ(7/8)

(1)時は鎌倉時代中期。大雪の中、一人の旅の僧が上野の国佐野(群馬県高崎市

付近)に差し掛かる。余りの大雪のため、とあるあばら家に一夜の宿を頼む。

(2)あばら家の主人は、その日の薪にも事欠く貧しくみすぼらしい家のため、一旦

は断り代わりの宿を教える。しかし雪を打ち払い立ち去る旅の僧の影に、

「駒とめて 袖打ち払う 影もなし 佐渡の渡りの 雪の夕暮れ」

と古歌を口すさんだかどうかは知らないが、旅の僧を呼び戻しあばら家へ招き入

れる。

(3)主人の妻は、粟粥を振舞うが、暖をとる薪もなく夜はしんしんと冷え込んでゆく。

(4)寒さに震える旅の僧を見かねたあばら家の主人、佐野源左衛門常世は自身

が丹精を籠めて育てた梅、桜、松の鉢の木(盆栽)を伐って、囲炉裏に入れ火を

こす。そして暖を提供する。

(5)旅の僧は篤(あつ)い常世(つねよ)のこの行為に感動し、主人の名を尋ね

の身の境遇を問いただす。

(6)常世は、付近の佐野庄近辺を支配する豪族だったが、一族の悪巧みに領地

奪われてしまったこと、鎌倉幕府の御家人として「鎌倉」に一大事があれば、

直ちに馳せ参ずるつもりと、その決意を語る。

「いざ鎌倉」とは江戸時代に起こった言葉だが、ここに起源する言葉なのであ

る。

(7)翌朝旅の僧は、「もし鎌倉に来ることがあれば、是非立ち寄ってくれ。何らか

お役に立てよう。」と言って、あばら家を去ってゆく。

(8)やがて時は移り、鎌倉から緊急の動員令が発せられる。佐野常世も綻

(ほころ)びた鎧と錆びた刀を身に着け、やせ馬にまたがり、やっとの思いで

鎌倉にたどりく。

(9)すると常世は幕府に召し出されて、御前に進み出る。するとそこには過日の

の僧に似た殿様がいる。そして、その殿様こそ、実は前執権、現在最高の

実力者北条時頼その人だった。

(10)時頼は佐野常世が先の言葉に違わず馳せ参じた事をほめ、直ちに奪われ

佐野庄三十余郷を返し与え、更に、薪にされた梅、桜、松の鉢の木に因んで、

賀国・梅田庄越中国桜井庄上野国松井田庄の三つの庄園を恩賞とし

えたのであった。

佐野源左衛門常世は、大喜びで故郷に錦を飾ることが出来たのであった。

ここで現実に戻ってもらうが、日本ではこのように、感動すべき話になっている。

人肉を食わされる中国の残虐極まりないものとは、根本的に異なる。

政府も、このような感動的な話は、どんどん教科書に載せて教育現場で使って

ほしいものだ。そして、チンコロ中国の「南京大虐殺記念館」の究極の間違い

教科書に載せて、時代を背負う日本の若人に教えるべきと思う。

8.南京の捏造を広めた「朝日新聞

南京大虐殺記念館の虚構は、これでお分かり戴けた事と思うが、なぜこれ程

でにこの虚構が広められたのであろうか。

これも先に紹介した、WiLLの3月号の上田真弓氏の「朝日新聞は南京大虐

30万人 を訂正・謝罪せよ」を引用市ながら、その理由を説明してみよう。

世の中に南京大虐殺の虚構を広めたのは、あの朝日新聞だと言う。しかし

の朝日は、中国で新記念館がリニューアルオーブンした2日後、社説でこの

ことを取り上げ人を食ったようなことを言っている、と言う。

「30万と言う数字は専門家に任せて……。両国の政治にとって今大事なのは、

の事件を日中間の障害とせず、和解に向けて手立てを講じていくことだ。」

などと人事のようなことを言っていると言う。

てめいが自分で作っておいて、何を言っているのか。すぐにあれは間違いで、

真っ赤な嘘だったとなぜ言わないのか。

(1) 朝日新聞本多勝一記者

1971年、朝日の本多勝一記者は、世界と交流を断っていた中国に「日本軍

残虐行為を取材させてくれ」と入国を申請した。半年後に特別に入国を許可

れ、朝日新聞に書いた記事が、「中国の旅」と言うものであった。

当時の中国は文化大革命の嵐が吹き荒れており、二千万人近くが殺されて

いたのだが、外の人達には何が起きているのかわからなかった。

中国側の半年間の準備がようやく整い、本多記者は中国に乗り込む。

そこで中国はてぐすねをひいて待ち構えていた。

 

中国共産党が用意していたシチュエーションで、用意された人達の話を一方

に聞かされた。本多はそれをそのまま朝日新聞に連載したと言う。

(続く)