中国の厚顔無恥(4)

さて石平氏の論文に従ってその内容を紹介していこう。

1989年6月4日、中国ではあのおぞましい「天安門事件」が発生する。いわゆ

六四天安門事件、(197645日の周恩来首相死去に際して発生した第一

天安門事件と区別して)第二次天安門事件とも呼ばれている。

丸腰の学生達に人民解放軍は腰だめで機関銃を打ち込み、多数の学生達が殺

された。そのため中国は世界各国から激しい非難を浴び、特に西側先進諸国か

らは厳しい糾弾を受け、国際社会から完全に孤立してしまった。このため趙紫

総書記は失脚してしまう。

死者数は政府発表によれば319人だが、当時の楊尚昆国家主席の生前の話と

して600人以上とか、病院関係者などの話として数千人説もある。また国際アム

ネスティなどの推定として、北京で1万人、北京以外で2万人の合計3万人が殺

れたとしている。現在中国国内ではネット検索などでの検索規制が厳しく、天

門事件関係の記録は皆無でありこの事件を知らない世代が大多数となってい

る。

Wikipediaによると、

江沢民は、天安門事件直後の中国共産党第13期中央委員会第4次全体会議

(13期4中全会)で、趙紫陽の失脚に伴い鄧小平に中国共産総書記に抜擢さ

れる。そして同年11月に鄧小平の後を継いで、中国共産中央軍事委員会主

に着き、1990年には国家中央軍事委員会主席に選ばれ、1993年3月には

第8期全国人民代表会議第1回会議で、楊尚昆の後中華人民共和国国家主

に選ばれている。そして中華人民共和国国家主席/中国共産総書記

中国共産党中央軍事委員会主席を兼任して権力を一元化した。中国は一党独

裁のため江沢民以前は、共産党が国家を所有している形態で党が国家を優越し

ていた感が強かったが、これで名実共に中国の最高指導者となった。

http://blog.tatsuru.com/archives/001056.phpによると、

1990年に江沢民は愛国教育宣言を行い、1995年、終戦50年記念にあわせ

愛国主義反日教育を始めた。1995年と言えば、日本は阪神淡路大震災

オウム真理教事件の直後であり、さらに社会党村山富市が首相の座に座っ

ていた。そのために中国で始った「反日キャンペーン」に対しては何の抗議も行

わなかった。

自民党も政権の一翼を担っていながら、なんらの抗議も行わなかった。この失政

は万死に値する。

話は元に戻るが、その江沢民天安門事件の記憶の覚めやらぬ1992年4

に、中国共産党総書記として初来日している。

この時の江沢民は、その行程中あらゆるところで、精一杯の愛嬌を振りまき、日

本国民の歓心を買うためのパフォーマンスに徹していたと言う。

その「下心」が、天皇ご訪中誘致作戦」であり、そのためのパフォーマンスだっ

たのである。

天安門事件により中国は、完全に国際社会から孤立してしまった。この孤立状

態からの脱出の工作対象が、先進国の中で一番弱いとされた日本だったのであ

る。なんとしてでも日本の天皇陛下のご訪中を実現させ、国際社会復帰への突

破口を開こうと工作していたのである。

そのために江沢民自らが日本に行き、精力的に天皇ご訪中誘致作戦」を仕掛

けたのである。それが前述した「精一杯の愛嬌」だったのである。この目論見は

見事成功し、当時の宮沢喜一政権下の1992年10月23日、天皇陛下は初

めて中国をご訪問された。

この天皇ご訪中により、窮地に陥っていた江沢民政権は、国際社会復帰の重要

な第一歩を踏み出すことになる。江沢民政権は日本に救われたのである、

と石平氏はこの論文で述べている。

江沢民の任期は、

共産党総書記1989-2003年)中国国家主席1993327-2003315

日)共産党中央軍事委員会主席(1989-2004年)の長きに渡っている。

然るに中国は中国国民の国と言うよりも、あくまでも中国共産党の国であり、

人々は中国共産党の人民なのである。国の民(たみ)と言うよりも、中国共産党

に所有される人民(人と言う民)なのである。いうなれば中国共産党を維持する

ための人と言う資源なのである、と言ったほうが合っているのか。人民解放軍

人民や国家を守ると言うよりも中国共産党を守る軍隊なのである。人民から共産

党を解放する軍隊、と言うのが正しい解釈なのである、と言った文言をどこかで

読んだ記憶があるがなるほどなあ、と感心する。

天皇ご訪中により救われた江沢民政権は、5年後の1997年、当時のクリントン

政権と急接近してアメリカと「戦略的パートナー関係」を結ぶことに成功し息を

吹き返す。

そして1998年8月には「日本に対しては歴史問題を始終強調し、永遠に話し

いかなければならない」と外国に駐在する大使など外交当局者を集めた会議

指示を出している。2006年8月に発売された江沢民文選に、そのように記載

れている。

また、1998年11月国家主席としては初来日した際には、「日本政府による

史教育が不十分だから、国民の不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と

言し日本を激しく非難している。このため日本の嫌中感は極限まで上昇した。

天皇ご訪中を全うさせた江沢民政権にとっては、日本はもはや用済み。

政権の求心力を高めるために、国内的には反日教育を盛んに行い、国際的

にはクリントン政権と手を組んで日本を封じ込める戦略を進める。ことあるごと

に「歴史認識問題」を持ち出して日本を徹底的に叩こうとする高圧的な対日「虐

(いじ)め」外交を展開したのである。そして狡猾な北京政府に恩を仇で返され

当時の宮沢政権は、日本の皇室と国民に対し万死に値する禍根を残した

と石平氏は結んでいる。

(続く)