靖国神社に参拝しよう(3)

ハル・ノート*

1941年(S16年)11月26日日米交渉においてアメリカ側から提示された

交渉文書であり、実質的なアメリカ側の日本に対する「最後通牒(宣戦布告)

であった。当時の陸軍長官のスティムソンは、1941年(S16年)11月28日の

ルーズベルト大統領との会見の時には、「我々にあまり危険を及ぼさずに、い

かにして日本を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と発言している。このた

め日本が先制攻撃をするように仕向ける一環として、ハル・ノートを日本に突き

つけたものである。アメリカが先制攻撃をする場合には、前もって議会と国内世

論をまとめる必要があり、これにはかなりの困難が伴いものと思われていた。

そしてアメリカ上層部は、12月はじめには日本との戦争状態に突入するであろ

うと予想していたといわれている。

ハル・ノートの内容は概略次の通り。http://www.senyu-ren.jp/AA/08.HTMによる。)

1.満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の前面撤退。

2.大陸に於けるすべての権益の放棄。

3.三国同盟の廃棄。 と言う過酷な内容のものであった。

要するに、既に建国10年を経て栄えている満州国をも放棄し、日清・日露戦役

以来国際法上認められてきた日本の諸権益も投げ出して大陸から出て行けとい

うことで、これは戦わずしてアメリカに屈服せよというに等しく、到底日本が受け

入れられないことを承知で突きつけたものである。天皇の「戦争せずに交渉せ

よ」、とのお言葉に真剣に戦争回避の方策を検討していた東条内閣も首相以下

政府・軍部首脳は、万事休すと天を仰いだのである。後の東京裁判でインドの

パール判事をして「このような過酷な要求を突きつけられたならば、地中海

の小国モナコと言えども銃を執って立ち上がるであろう。」言わしめるほど

傍若無人な過酷なものであった。

大東亜戦争(太平洋戦争)

1941年(S16年)12月8日真珠湾攻撃で、今次の戦争の火蓋は切って落と

された。そして1941年(S16年)12月12日、大東亜戦争との呼称が閣議決定

され、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦

争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するもの

にして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらずと発表され、

この戦争は、アジア諸国に於ける欧米の植民地支配の打倒を目指すものであ

ると規定した。この方針は1943年(S18年)の大東亜会議で「再確認」されて

いる。

このため大東亜共栄圏とは、アジアを欧米列強の植民地支配から開放し独立さ

せて、現在の欧州連合のような政治・経済を中心とした対等な国家連合を実現

させて、その中で日本も資源を確保しアジア諸国の発展に寄与し、共存共栄の

経済圏を建設しようとしたもの理解できる。

このことは、1943年(S18年)11月5、6日に東京で開催された、史上初め

ての有色人種のみが一堂に会した首脳会議・大東亜会議で採択された「大東

亜共同宣言」をみればよく分かる。

大東亜共同宣言(概略)

『よくよく世界各国が各々そのところを得、相より相助けて、万邦共栄の楽を皆

にするは世界平和確立の根本要義なり。然るに米英は自国の繁栄の為には他

国家、他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては、あくなき侵略搾取を行い、大東

亜隷属化の野望たくましゅうし、遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり。

大東亜戦争の原因ここに存す。大東亜各国は、相提携して大東亜を完遂し、

大東亜を米英の桎梏より開放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基づき

大東亜を建設し、以って世界の確立に寄与せんことを期す。

1.共存共栄2.自主独立、3.伝統尊重・民族繁栄、4.互恵提携・経済発展
5.人種差別撤廃・文化交流・資源開放 

なお大東亜会議への主席国は、日本、南京政府満州国、フィリピン、ビルマ

タイ、インドなどの諸国であり、マレー、インドネシア、仏領インドシナは出席でき

なかった。

(続く)