(7)バ・モウ初代ビルマ首相
(バ・モウ著「ビルマの夜明け」より、ビルマは現在ミャンマーと名前を変え、
首都ラングーンはヤンゴンに変わっている。)
(http://1st.geocities.jp/cutenao104/biruma.htmのキャッシュより)
「真実のビルマ独立宣言は、1948年1月4日ではなく1943年(S18年)
8月1日に行われたのであって、真のビルマの解放者はアトリー率いる労働
党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」
「歴史的にこれをみるならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させる
ことに貢献した国はない。しかしまた、その開放を助けたり、あるいは多くの
事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受
けている国はない。」
(注)ビルマは19世紀初頭よりインドを侵略した英国の圧力を受け続けてい
たが、抵抗むなしく1886年に全土を英軍に占領され、英領インドに編入され
てしまった。大東亜戦争開戦後、アウン・サンは日本軍の「南機関」の支援を
得て、ビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に戦い、1942年7月にイギリ
ス軍をビルマから駆逐する。翌年3月に日本で旭日章を受賞し、この年
1943年8月1日にバ・モウを首相とするビルマ国が誕生し、アウン・サンは
国防相となる。
戦後イギリスからの完全独立を目指すビルマは、アウン・サンを主席とする
ビルマ行政参事会代表団と英国政府との交渉の結果、1947年1月、アウン
・サン=アトリー協定を締結、アウン・サンはその後ビルマ国内を、英領ビルマ
全域を連邦制国家として独立させる方向でまとめる(パンロン協定)。そして
1947年12月英国両院でビルマ独立法案可決を経て、1948年1月4日
英連邦から離脱した共和制国家として、完全独立を果たしている。
しかし現在ビルマにおいてはパンロン協定の内容は実現していない。
以上、注書きはhttp://www.mekong.ne.jp/directory/history/panglong.htm
および
http://homepage3.nifty.com/htunktt/index1.htmlより引用。
(戦後の初代ビルマ首相となったウー・ヌらビルマ指導者達の言葉、「同著」より)
「それは言葉では言い表させないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸
を膨らませて、いたるところで歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域
社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群集がパゴダを訪れて
灯明を挙げ、花を捧げた。僧達は、町中で振る舞いを受け、催物は果てしなく
続いた。人々は集い、日本語で「万歳」を叫んで、日本に対する深い感謝を現
す決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージを東条首
相と日本政府に送られた」
(8)ガザリー・シャフェー 元マレーシア外相
(1988(S63)年7月19日、赤坂プリンスホテルにて、
彼はアセアンの創設に尽力しハマーシェルド賞を受賞している。
http://chinachips.fc2web.com/repo4/045813.html日本をしかる男(2)より)
日本の代議士の、「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑を
おかけして申し訳ありませんでした」と言う挨拶に対して、
「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの対戦で日本はよくやったでは
ないですか。マレー人と同じ小さな体の日本人が、大きなイギリス人を追い
払ったではありませんか。その結果マレーシアは独立できたのです。
大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の
東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ。
私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに目
を開いて下さい。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツ
です。押しも押されもせぬアジアの経済大国ではありませんか。
「ルック・イースト」「日本に学べ」
と言う呼び掛けはシンガポールやマレーシアだけではありません。口に出して
は言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かつて反日感情
の強かった国々も、次第に親日感情が起こりつつあります。
そうした中にあって、日本は欧米ばかり目を向けず、アジアに対して責任を
持つ国になってほしいのです。日本はかつて、アジアに対して責任を感じ、
そのために戦争であれだけの犠牲を払ったのです。
この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなも
のです。自動車は前を向いて運転しなければ進路を間違えますよ。」
(戦後の日本の姿を見て彼は次のようにも語った。)
「自己を否定するあまり、日本の大事な精神を崩壊させて、民族の誇りを
完全に失った。」
(続く)