ヨーロッパと日本(2)

2.長崎の出島(1634年~1859年)

また、オランダがフランスに占領されたことは、遠く日本にも少なからぬ影響を与

えている。(フェートン号事件

ちなみに日本とオランダとの関係は、1600年にオランダ商船リーフデ号が現在

大分県臼杵市に漂着したことから始る。イギリス人イリアム・アダムス

海士としてこの船に乗船していたが、後の三浦按針として江戸幕府に貢献す

ることになる。オランダ1609年徳川家康により朱印状が与えられ、平戸に

オランダ商館が設置され、1641年には長崎の出島に移転させられている。

出島は1634年に築造が開始されている。これに対してイギリス1613年

平戸に商館を設置しているが、1623年インドネシアモルッカ諸島アンボイ

ナ島のイギリス商館がオランダに襲われ全滅したことにより(アンボイナ事件

閉鎖されている。そして1855年には日蘭和親条約が締結され、翌年には出

島開放令が出され、出島の存在意義が失われ1859年に出島オランダ商館は

閉鎖されている。1868年には明治維新となる。

話を戻すが、後述するナポレオン戦争中の1808年のことだが、イギリス船によ

る長崎・出島のオランダ商館襲撃事件が発生している。いわゆるフェートン号

事件である。

フランスがオランダを占領したために、オランダの植民地はフランスの影響下に

置かれることになった。しかしオランダ総統ウィレム5世のイギリス亡命の結

果、その依頼によりイギリスはオランダの海外植民地の接収を始める。長崎出

島のオランダ商館のオランダ東インド会社は依然として旧オランダが管轄してい

た。アジアの制海権を握っているイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号は、

1808年10月4日、オランダ船の拿捕を目的にオランダ国旗を掲げて長崎に

入港する。オランダ船と勘違いしたオランダ商館員2名が慣例に従いで迎えにで

るが、武装ボートによって拿捕されてしまう。イギリス船はオランダ国旗を降ろし

イギリス国旗を掲げ、港内を捜索し薪・水・食糧の提供をを要求する。種々の脅

迫を受けた長崎奉行はやむなくイギリス船の要求を受け入れ、食糧や飲料水を

供給しオランダ商館も豚牛などを提供したため、オランダ人を釈放し、10月17

日港外に出る。太平の眠りを覚まされた長崎奉行や警護担当の鍋島藩家老達

は責任を取った切腹となり、以後臨検体制の改革が行われ、外国船の入国手続

きが強化されることとなる。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、

幕府は1825年異国船打払い令を発令することとなる。

(続く)