3.ナポレオン戦争(1803年~1815年)
第2次対仏大同盟に包囲されたフランスは、ナポレオンなどの活躍により戦況を
盛り返し、1802年3月25日、フランス北部のアミアンで講和条約が締結され
(アミアン条約)、フランスがイタリアを含 む周辺地域を征服して、フランス革命
戦争は終結する。
しかし、マルタ島の管理権をめぐる争いからフランスとイギリスの関係は悪化し、
ロシアの調停も失敗し、1803年5月16日、イギリスはアミン条約を破棄し、
フランスへ宣戦布告しナポレオン戦争(1803.5.16~1815.11.20)へ突入してゆく。
そしてナポレオンはイギリス本土侵攻を企てたため、イギリスは1805年4月
11日に、各国と第3次対仏大同盟を結成する。1805年10月21日イギリス
はトラファルガーの海戦でフランスに勝利するが、陸上の戦いではフランスが
勝利する。
特に1806年10月のイエナ・アウエルシュタットの戦いではプロイセン軍を破
り、フランスはヨーロッパ中央部を制圧することになる。そして1806年11月に
は大陸封鎖令を制定してイギリスとの貿易を禁止した。しかし、1808年7月に
はスペイン・ゲリラ連合軍に敗退し(1808~1814、半島戦争)、1812年ナポレオ
ンはロシアに遠征し冬将軍に敗れ、1814年4月16日、フォンテーヌブロー
条約によりエルベ島に追放される。
1815年2月26日ナポレオンはエルベ島を脱出しパリに戻り、1815年3月20
日に復位を成し遂げる。しかし1815年6月18日、イギリス・オランダ連合軍と
ワーテルローで会戦し、ウェリントン公率いるイギリス軍は数で劣り劣勢となる
が、プロイセン軍が到着するやフランス軍は潰走する。1815年6月22日、ナポ
レオンは再び退位を余儀なくされ、セントヘレナ島へ流刑となる。これを百日天
下と言う(1815年3月20日~1815年6月18日)。そして1815年11月
20日に第2次パリ条約が締結され、フランスは「1790年当時の領土」へと縮
小され、この戦争でフランスは革命戦争で得た成果を全て喪失することとなる。
なおフランス革命(1789.7.14~1794.7.27)以降断続的に20年以上に渡って続い
た戦乱は、これでもって正式に集結した。
(ナポレオン戦争1803.5.16~1815.11.20)
以上Wikipediaを中心に引用し、開国に向けての日本とヨーロッパの状況を俯瞰
してみたが、いずれにしてもヨーロッパも戦争が好きな国の集まりであり、自国を
守る手立てを持たない事には独立も確保できないことがよく分かる。
(続く)