4.日英修好通商条約(1858年)
今年は日英修好通商条約調印後150周年に当たる。そして今年一年を「UK-
JAPAN 2008」と呼称し、英国の創造性を紹介し日本とのコラボレーションを強化
しようとしている。英国の芸術、科学技術、クリエイティブ産業分野で創造性あふ
れる現代を紹介し、日英間のコラボレーションを活性化し両国の更なる発展を目
指すと言うのが、この活動のテーマである。(UK-JAPAN 2008のホームページよ
以下Wikipediaを引用して説明を進める。
日本とイギリスとの関係は、1600年4月19日(慶長5年3月7日)に豊後の臼
杵に漂着したオランダ船リーフデ号の航海士として乗船していたイギリス人ウィ
リアム・アダムスから始る。その後1808年にはイギリス軍艦フェートン号の長
崎侵入事件が発生している。そのため主にイギリス軍艦に対する警戒を主とし
て、1825年には異国船打払い令が発令されている。そして1840年にはイ
ギリスはアヘン戦争で清朝に勝利している。1853年にはペリーが浦賀に来航
し1854年3月31日には日米和親条約が結ばれ、1854年10月14日、
徳川幕府はイギリスと日英和新条約を締結する。これは日本がイギリスと取り
交わしたはじめての条約であるが、これらは幕末の混乱期に欧米列強との締
結を余儀なくされた不平等条約のはしりとなるのである。
日本はこの日英和親条約で長崎と函館をイギリスに開放し、薪水の供給を認
め、治外法権や最恵国待遇なども認めさせられたが、通商規定は無かった。
そのため1858年8月26日、日英修好通商条約が徳川幕府とイギリス代表
エルギン卿との間で調印される。条約港の設定とそこでの治外法権の承認と
関税自主権の制限、外交使節の交換を定め、江戸に在日英国代表部が置か
れた。条約港としては函館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の5港が定められており、
事実上輸入関税免除の状態が続き、条約港での治外法権が設定されており、
不平等条約が強化されている。そのため明治政府は、輸出関税自主権の回復
と領事裁判権(治外法権)の撤廃を目指して外交努力を続けるが、その解決に
(1904年~1905年)後の事となる。
尚この年1858年7月29日には日米修好通商条約、同年8月26日には前
述の日英、同年10月9日には日仏通商修好条約、同年8月には日露、
同年8月17日には日蘭修好通商条約が調印されており、安政の五カ国条約
と呼ばれている。
紀州藩主徳川家茂(1858年11月30日~)を次期将軍に押す彦根藩主の井
伊直弼が安政5年4月23日(1858年6月4日)に江戸幕府の大老職に就任
し、勅許を得ないままこれらの条約に調印した。
孝明天皇は強固な攘夷思想を持ち、井伊直弼の独断での諸外国との条約の
調印に強い不快感を示し1858年9月14日(安政5年8月8日)水戸藩に勅書
を下賜し公武合体を推し進め、幕政改革を求めている。これは正式な手続きを
経ないまま下賜されたために、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と言われている。
幕府を経ずして直接水戸藩へ朝廷から勅書が渡されたため、幕府はいたくその
威信が貶められた。更に、世継ぎ問題の混乱もあり、井伊大老の諸施策に反対
者が続出した。これが安政の大獄への引き金である。
このため井伊大老は大弾圧を実施した。これを安政の大獄と言い、安政7年3
月3日(1860年3月24日)、桜田門外の変において井伊大老が暗殺されて
収束することとなる。
なお孝明天皇は公武合体を推し進めるために、文久2年2月11日(1862年)
異母妹・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を第14代征夷大将
軍・徳川家茂に降嫁させている。
そして島津久光の建白を受け、勅使を江戸へ派遣する。久光は文久2年6月7
日(1862年)勅使大原重徳を警護して江戸に下向し、勅使と共に幕府と交渉あ
たり徳川家茂の後見職に徳川慶喜を任命させたり、参勤交代を緩和させ洋学
研究を推進させ、西洋兵制を導入させている。これを文久の改革と言う。
そして、久光の江戸からの帰路、生麦事件が発生する。
(続く)