ヨーロッパと日本(6)

5.生麦事件と薩英戦争(1862年9月、1863年8月)

そして1862年9月14日文久2年8月21日)生麦村(神奈川県横浜市鶴見の

生麦)付近で、薩摩藩島津久光の行列に突っ込んだイギリス人4人の内、商

人のリチャードソンが薩摩藩士に切り殺されると言う事件が起きている。他の3

人のイギリス人も手傷を負っている。いわゆる「生麦事件」の発生である。

1863年はじめに、イギリスの外務大臣ラッセル卿は日本駐在の代理公使

ジョン・ニールに次のような指示を出している。

幕府に対しては、 「公式謝罪と罰金10万ポンド」

薩摩藩に対しては、 「犯人の処刑と賠償金2万5千ポンド」

そしてもし拒んだ場合には、「船舶の捕獲と海上封鎖、薩摩への砲撃」

と言う過激なものであった。このためニールはイギリス極東艦隊の軍艦を可能な

限り横浜に集結させた。しかし「薩摩は幕府に介入されることを嫌がっているだ

けで、イギリスと友好条約を結びたいと思っている。」との情報は、既にイギリス

公使館にもたらされていた。

海軍力をバックにしたニールの傲慢な交渉の結果、フランス公使の仲介により

幕府から要求通り1863年6月に賠償金10万ポンドを受け取り、薩摩との交渉

に赴く。交渉を拒否されたイギリスは1863年8月12日(文久3年6月28日)、

7隻のイギリス艦隊を錦江湾の奥深く前之浜沖に投錨させる。1863年8月15

、イギリス艦隊は薩摩藩の汽船3隻を拿捕する。このため薩摩藩は陸上砲台

80門の砲門を開き、攻撃を開始する。

イギリス軍艦も最新式のアームストロング砲などで応戦し、薩摩藩の陸上砲台

や藩営の近代工場集成館などを破壊し、更には鹿児島城の北側の市街地まで

も艦砲射撃で砲撃した。しかし薩摩藩による砲撃も正確で、イギリス艦隊も甚大

な損害を被(こうむ)っている。大破1隻、中破2隻、旗艦ユーリアラスの艦長・副

長の戦死を含む死傷者63人にも及んだと言う。これに対して薩摩側は物的損

害は、民家354余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻消失とそれ

なりの被害を受けたが、薩摩藩の死傷者は死者1人、負傷者7人とイギリス側に

比べると少なかった。(ただし、市街地では死者3人、負傷者5人であった。)

1863年8月17日、イギリス艦隊は旗艦艦長や副長の戦死、弾薬、石炭燃料

の消耗のため薩摩から撤退し、横浜へ引き返すこととなる。このためこの戦闘

での勝敗はさまざまな見方があるが、「双方引き分け説」が妥当ではないかと

推測する。これが世に言う「薩英戦争(1863.8.15~1863.8.17」である。

1863年11月15日、薩摩藩は代理公使ジョン・ニールとイギリス大使館で講和

を結び、6万300両(2万5千ポンド相当)を幕府から借金をして支払う。しかしこ

の借用金は幕府に返される事はなかった。

この薩英戦争の結果、薩摩藩攘夷が不可能なことを理解し近代化を急ぎ、

また、イギリスは薩英戦争以降、薩摩側の兵力を高く評価しフランスに対抗す

る観点から幕府支持の方針を転換し、薩摩藩との関係を強めることとなる。こ

の後長州も歴史舞台に顔を出し、巡るましく幕末の歴史は動いてゆくことになる。

(続く)