6.下関戦争(馬関戦争)と文久の政変
(1863年5月、1863年9月、1864年8月)
これより前、1862年9月朝廷は江戸へ勅使を送り、攘夷を申し付けている。
これを受け、徳川家茂は1863年3月に上洛し朝廷に、5月10日に攘夷を実行
する旨上奏する。
これを受け長州藩は、1863年5月10日以降、アメリカ商船、フランス通報艦、
オランダ軍艦に対して、陸上砲台や長州の軍艦より砲撃を繰り返し、損害を与え
ている。このため6月にはいりアメリカ軍艦やフランス軍艦は、長州砲台に砲撃
を加え甚大な損害を与え、更には長州軍艦2隻を撃沈している。
これが下関戦争の前段である。
下関で敗退した長州は更に政治の中枢からも追放されてゆく。
文久の政変である。
尊皇攘夷派が大勢を占めた長州藩は尊攘派の公家と共謀して、孝明天皇から
攘夷実行の詔勅を得ようと画策していた。文久3年8月18日(1863年9月30
日)、これを察知した薩摩藩、会津藩や一橋慶喜は、孝明天皇、公武合体派の
公家と連帯して尊攘派を処罰し朝廷から一掃してしまった。これにより長州藩
は京都の警備も免じられ、公家7人と共に(七卿落ち)京都から落ち延びた。
しかし下関海峡は相変わらず長州により封鎖されており、長崎貿易が麻痺状態
に陥っていることを問題視したイギリス公使ラザフォード・オールコックはフラン
ス、オランダ、アメリカに働きかけて、四国連合により長州藩へ懲罰攻撃を決定
する。
1864年8月5日~7日にかけて四国艦隊は長州砲台群に猛攻撃を開始し、
陸戦隊を上陸させ悉(ことごと)く砲台群を破壊し、内陸部まで侵攻し新式銃を駆
使して長州軍を圧倒した。完敗した長州藩は高杉晋作を使者に立て、8月8日
に講和談判を開始した。長州藩は連合軍の提示した五つの条件を全て受け入
れて講和が成立した。
その条件とは、
1.下関海峡航行の自由
2.石炭、水、食糧などの必要品の売り渡し
3.船員の下関への上陸の許可
4.下関砲台の撤去
5.賠償金300万ドルの支払い
の5項目であった。これが下関戦争の後段にあたり「馬関戦争」とも呼ばれる。
これが下関戦争(馬関戦争)である。この下関戦争の敗戦を受けて長州藩も攘
夷の不可能なことを覚り、以降はイギリスに接近して軍備の増強に務め、討幕
運動を推し進めることになる。賠償金300万ドルは、150万ドルは幕府が支払
い、残りの150万ドルは明治新政府が明治7年まで分割で支払った。
ちなみに長州藩は1863年後半には、後日長州5傑と言われる5人をイギリス
留学に派遣している。当時は江戸幕府に対して密航となっている。五傑とは、
井上聞多(外交)、遠藤謹助(造幣)、山尾庸三(工学)、伊藤俊輔(内閣)、
野村弥吉(鉄道)の5人であり、夫々の専門分野での「父」とされている。
(続く)