京都を追われた長州を中心とする尊皇攘夷派は、潜伏して勢力回復を図ってい
た。そして公武合体派を暗殺し孝明天皇を長州へ連れ去ると言う御所焼き討ち
計画を立案していた。しかしその武器を調達する商人が捕まり計画が露見する。
そのため善後策を練るための会合が、京都三条木屋町の旅館「池田屋」で行わ
れていた。そこを新撰組に襲われ、尊皇攘夷の多くの実力者を失った。
(注)孝明天皇が強い攘夷思想を持っていた事は、4.日英修好通商条約(185
8)の項に追記してあるので参照願う。
これを1864年7月8日(元治元年6月5日)「池田屋事件」と言う。
「池田屋事件」で多くの藩士が亡くなった事が長州に届くと、長州は一気に尊皇
攘夷派が力を盛り返し、「藩主の冤罪を帝に訴える」などと称して挙兵してしまう。
朝廷内部も長州藩に対する強硬派と宥和派とが対立する。そのうちに長州藩兵
と会津・桑名藩兵とが、1864年8月20日、京都蛤御門付近で衝突する。長
州勢は一時優勢になり禁裏・京都御所内に侵入するが、薩摩藩兵が援軍に駆
けつけ長州軍を押し戻す。この激戦で長州は、久坂玄瑞などの有能な藩士たち
を失い敗退する。これを蛤御門の変(禁門の変)と呼ぶ。長州勢は長州藩屋敷
に火を放ち逃走したため、京都市内は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞
われる。以後長州は、薩摩藩と会津藩に恨みを抱き続けることとなる。この結果
長州藩では保守派が実権を握ることとなる。
更に朝廷は、長州藩兵は内裏や禁裏に向けて発砲したことを理由に、長州藩を
朝敵とし幕府に対して長州征伐の勅命を下す。これが第1次長州征伐である。
長州の実権を握った保守派はこれに対して恭順の意を示し、一応幕府側の勝
利に終わり1864年12月撤兵となる。
しかし翌年の1865年、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵
し、保守派を打倒し倒幕派政権を樹立させ(元治の内乱)、西洋式軍制の奇兵
隊を創設し藩の軍制も整備する。大村益次郎を登用して、新式銃などの配備が
行われ近代化してゆく。これら不穏な空気を察して幕府(第14代将軍徳川家茂)
は再度長州征伐を決定する。
(続く)