8.薩長同盟(1866年3月7日)と第2次長州征伐
この間、幕藩体制から脱却して新しい日本を早く築き上げるたるめに、薩摩と長
州とを仲直りさせ同盟を結ばせる動きが密かに進められていた。土佐藩士の中
岡慎太郎、土方楠左衛門(ひじかた くすざえもん)の2人は、積極的に長州藩を
説得してまわった。2人は同じ土佐藩の坂本龍馬に協力を求め、長州と薩摩とを
同盟させるべく「桂小五郎」と「西郷隆盛」とを京都二本松(現在の同志社大学今
出川キャンバスあたり)の薩摩藩邸で引き合わせる。お互いにわだかまりを解消
できないでいたが、坂本龍馬の「薩長同盟は、薩摩や長州だけの問題ではない。
日本全体の問題である。」との説得に動かされて、薩摩から長州に同盟が申し
込まれて、1866年3月7日(慶応2年1月21日)、薩長同盟が締結される。
お互いの信頼関係を確立するために坂本龍馬は、薩摩に兵器を購入させ長州
に渡し、長州からは兵糧米を薩摩に供給させた。長崎のグラバー邸はその兵器
を手当てしたイギリス商人トーマス・ブレイク・グラバーの屋敷である。
薩長同盟は次の6カ条からなり、薩摩が長州に協力して名誉を回復させると言う
もの。
1.戦争になったら薩摩は二千名の兵を上京させ京都・大阪を守る。
2.長州が戦争に勝てそうな時は、薩摩は朝廷側に直ちに働きかけ、長州を支援
し講和成立に尽力する。
3.長州が負けそうな時には、その間、薩摩は援護策を講ずる。
4.幕府が関東へ引き上げたら、薩摩は直ちに朝廷に長州の冤罪を訴え赦免を
要求する。
5.一橋・桑名・会津が朝廷を利用し、薩摩の斡旋を妨げる時は、薩摩は長州と
共に決戦を挑む。
6.朝廷より赦免を得られた時は、両藩で皇国の為に尽力し、天皇親政を実現す
る。
この項は以下のサイトを参照している。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai6.htm
http://f40.aaa.livedoor.jp/~paulnobu/sattyodomei-teiketsu.html
1866年7月18日、幕府艦隊が周防大島への艦砲射撃を皮切りに、第2次長
州征伐が始る。各地で戦いが繰り広げられたが、薩摩から提供された兵器類
のおかげで、高杉晋作率いる海軍が幕府海軍を敗走させたり、山縣有朋率いる
長州軍の活躍などで長州は圧勝し、幕府軍の全面敗北に終わる。薩摩はこの
戦いには出兵を拒否して参加していない。
この第2次長州征伐の最中、1866年8月29日(慶応2年7月20日)、
そのため将軍後見職(1862年・文久2年~)を務めていた徳川(一橋)慶喜
が、家茂の後を継いで慶応2年12月5日(1867年1月10日)江戸幕府第15
代将軍に就任する。当初、一橋慶喜は徳川宗家の相続はするものの将軍職
就任は固辞し続けたので、将軍宣下(天皇のお言葉を、述べ伝えること)を受け
やっと将軍職に就任する。これで朝廷に恩を売った形をとり、政治を有利に進め
ることを狙ったものである。徳川慶喜は意外と計算高くやり手であった。フランス
公使のロッシュを通じ240万ドルの援助を受け、製鉄所や造船所を作り、軍事
顧問団を招聘し軍制改革などを行っている。またパリ万国博覧会(1867年4月
1日~11月3日)に実弟の徳川昭武を派遣している。このとき薩摩藩も独自に
出展し幕府から抗議を受けているが、薩摩藩は無視している。
(続く)